楊家太極拳の秘伝にせまる!

今まで知られていない事実がついに明らかになるか!?


演武・技術協力/李進川
資料提供/李進川 丸山宏之 太極気功養生教室 友村
編集/中国武術WEB編集部



楊家太極拳創始者・楊露禅
陳家溝で太極拳を学んだ楊露禅は「楊無敵」と称され、のちに満州族が統治する清朝朝廷の高官たちにも教授することとなる。
異民族である清朝朝廷の満州族の高官に漢民族の文化である太極拳を教えたくなかったが、
時の権力者たちに逆らってまで事を荒立てるのも好まなかった楊露禅、楊一族がとった行動とは !?

その時から清朝朝廷の高官たちが多く指導していったということで、秘伝は世の中には伝わらず、
やわらかい健康法として多くの知られるようになっていくことになったその真相とは !?


楊家太極拳第二代・楊健侯




 


はじめに

 楊式太極拳の創始者・楊露禅(1799年〜1872年)は、幼少の頃より武術を好み、初め少林系の紅拳(洪拳)を学んだが、後に縁あって陳家構の陳長興に師事し、陳一族に伝わる秘拳・綿拳(老架108式)を学ぶことにより、武の道に自在を得た、と伝えられる。40歳を過ぎてから北京に出て、数多の武術家と試合をしたが一度として敗れることはなく、世人は彼を「楊無敵」と呼んで賞賛した…
以上のとおりすべての太極拳のルーツは陳式太極拳と言うことのが定説になっている。

 だが、別の説を唱えている楊式太極拳家もおられる。その別の説を唱えているのは、後で紹介する台湾の王延年伝の楊家秘伝太極拳を練習しているグループである。元々少林紅拳を練習していて相当な使い手になっていた楊露禅は、当時練っていた自分の拳法に物足りなくなり、独自の拳法を編み出そうとして、中国各地を放浪して明師、多くの達人を尋ねて教えを乞うて歩いたのである。
ある時、陳家溝で門外不出の拳法が伝えられていると聞いた楊露禅は、陳家溝へと赴いた。その門外不出の拳法は当時“炮拳”と呼ばれていて陳一族の間で代々伝承があった。また、陳家溝の隣村には回教徒(イスラム教徒)の住む集落があり、そこに住む人々も大変武術を好む一族であったらしく、お互いに武術研鑚のために時々試合などをして技術交流していたそうである。そのため“炮拳”の中にはそのイスラム独自の拳法の技が多く取り入れられていたものもあったそうである。
当時の陳家溝では陳姓の一族の者にしか拳法を教えていなかった。従って外部の者がこの拳法を学ぼうとしても叶えられなかった。そこで楊露禅は下働きの者として潜入したのである。そして仕事を真面目にこなし、だんだんと信用されるようになった。信用を得るにつれて、陳一族の屋敷の奥の拳法を練習しているところへも出入りも許されるようになった。聡明で素質のある楊露禅は、別にじっくりと拳法の練習を観察しなくても、だんだんとこの拳法の要領が理解できるようになった。また見聞きしたことは、すべて脳中に収めるにとどめておかなければならず、研究したり実演して試してみる機会はなかったのである。なぜなら不具者を装って下働きの者としている手前、少しでも怪しい素振りを気づかれると、命の危険があったからである。当時の武術界の常識として部外の人間で武術の技を盗む者は殺されても文句をいえないのが常識である。
何年かこのようにして過ごしてきた楊露禅は、脳中に収めているこの武術を早く研究したかったが、当時の陳家溝では村への出入りなどの見張りが厳しく、なかなか村から脱出する機会がなかった。そんなある日、陳家の家で火事が起こり、全員無事に逃げ出したかに見えたが、ただ一人老婆(陳家の頭領の年老いた母親)が火事の猛火の中に取り残されてしまったのである。そこで楊露禅は猛火の中に飛び込み武術で練った動きを生かして老母を救い出した。そして老母の無事を確認すると、ドサクサに紛れてそのまま逃亡したのである。なぜなら老母を救出したことによって、不具者ではないことはもちろん、武術の腕も相当なものであるとバレてしまったからである。一刻の猶予もならなかったのである。そして、陳家溝の人々も火事騒ぎが落ちつくと、すぐに楊露禅に討っ手を差し向けて拳法の秘密を守ろうとしたのだが、陳家の頭領の母を救ったこともあり、陳家の頭領のツルの一声で討っ手を出すことを取りやめ、その恩に報いたのである。
陳家溝を逃れた後、楊露禅は命がけで見聞した“炮拳”をもとに、多くのいろんな拳法の長所を取り入れ、更に太極拳経や太極拳論に則った独特の拳法を編み出したのである。そして、各地でこの拳法を試して歩いたが無敵であった。このことから、人に「貴方の使うこの拳法の名前は何ですか?」と尋ねられた楊露禅は、太極拳経の理論によって創った“太極拳であると”答えたのであった。さらに有名になった楊露禅は、当時の清朝からも招かれて太極拳を教えることとなり、“太極拳”の名として有名になった。そして楊露禅とその太極拳が有名になって後、陳家溝の人々はその正体を知って「何だ、あいつは我々の拳法の技を盗んでおいて勝手に拳法を編み出したではないか。それなら、我々の拳法こそ太極拳の名にふさわしい」ということで“炮拳”を改めて“陳家太極拳”としたそうである。しかし、太極拳を創ったのは楊露禅であり、陳家溝の拳法は“炮拳”であることに変わりはないというのである。

どちらの説が正しいかは現在の我々にはわかりかねるが、どちらにしても楊露禅は陳家溝で独自の太極拳を完成させることができたキッカケになったことは間違いないであろう。

 楊露禅の拳はその子 班侯/健侯へと受け継がれ、更にその孫(健侯の子)少侯/澄甫へと伝承された。特に第三代嫡伝人の楊澄甫が「大架85式」という、動きが大きく緩やかで簡便な套路(型)を公開して普及に努めた結果、楊式太極拳は中国全土に広まり、「太極拳」は楊家の拳法の代名詞として世に認知されるところとなった。

 その一方で、楊一族から教えを受けた有能な武術家たちによって、呉式太極拳、武式太極拳、孫式太極拳、李式太極拳 等の分派が生まれ、数々の華やかな武勇伝と道教色の強い神秘性に彩られたこの拳法は、第二次大戦後、グローバル化の波の中で世界中にその愛好者を増やしていくことになる。

 ただ、パソコンを全世界に普及せしめた最大の功労者であるところのビル・ゲイツ氏が、必ずしも世界中の人々から賞賛を受けられないのと同様、楊式太極拳には常に批判や疑問がつきまとう。その最たるものは、「Windows方式の原型は、Apple社のMacintosh だ!」というものであろう。(楊式太極拳は暗勁を得意とする。だから楊式の末席に連なる我々も、“暗喩”を使ってみた)

 その他にも、「太極拳は清王朝の軟弱な貴族たちに愛好された結果、武術としての使用に耐えない健康法に成り下がった」とか、「楊澄甫は太極拳の真伝を会得できなかったため、しかたなく健康法(スポーツ)としての“大架”の普及に専念した」とか、「楊少侯→呉図南の伝えた“楊式小架”こそが太極拳の真髄で、他の架式は武術ではない」とか…

 また、一般に「楊少侯(孫)は速い動きの“小架”を伝え、楊健侯(子)は“気”を重視する“中架(老架)”を伝え、楊澄甫(孫)は大きくゆったり動く“大架”を普及させた」と言われるが、もしそれが事実なら、楊一族の拳架には統一性が無く、各自が勝手にそれぞれの自得した拳法を教授していただけではないか?という疑問が生ずる。…無論、単に血縁だからという理由で、天才の技がそっくりそのまま子や孫に伝承され得るとは限らない。それを考慮しても、しかし、小架、老架、大架は套路の趣きがあまりにも違い過ぎ、同じ太極拳とはとても思えない。それが、多くの研究家の疑問であり、楊式太極拳を研究する上での悩みでもあろう。

楊露禅(小架)−楊班侯(小架)
          楊健侯(中架)−楊少侯(小架)−呉図南(小架)
                    楊澄甫(大架)−鄭曼青


(楊少侯伝 小架)
http://www.youtube.com/watch?v=vm8mD9wyxbo

(呉図南 用架)
http://www.youtube.com/watch?v=0QRj4aqLsu8

(楊健侯伝 老六路/魏樹人演示)
http://www.youtube.com/watch?v=58bfbIi8bCY

(鄭曼青 三十七式)
http://www.youtube.com/watch?v=dGBfmEocCoM


府内派太極拳の歴史

 功成った後(1840年以降?)、北京に出て“楊無敵”の評判を勝ち得た楊露禅は、噂を伝え聞いた満人貴族によって宮廷に招かれ、城内(=府内)で自らの拳術を教授することになった。

(↓以下、楊式府内派嫡伝人・李正氏の覚書からの抜粋)
「…創始者・楊露禅は宮廷で太極拳を教えるに当たり、真伝を隠したり嘘を教えたりする意図は毛頭無く、誠心誠意 教導し、自らの技芸の悉くを伝授した。楊班侯が入京して父親(露禅)の助手を務めるようになった後、父親が真伝の全てを満人に伝えていることを甚だ不満に思い、ある時門下生を集めてこう宣言した。「わが父は既に老齢であるから(訳注:オヤジの教えている拳法は役に立たないんだぜ、というニュアンスを言外に含ませたものであろう)、これから諸君が拳法を練習する際は全てこの班侯が教える架式に改めて大架のみを練習し、その他の套路は二度と練習してはならない。これに従えぬ者はわが門を去れ。」当時楊班侯は男盛りで実力も抜群であったから、門下生たちは皆 班侯の教えこそが正しいのだと信じた。唯一人 富周先生だけは楊露禅の拳法を変えることを拒み、その代わり自分が習った技芸を決して外に漏らさぬことを班侯に誓った。」

※府内派太極拳の由来を検証する上で とても貴重かつドラマチックな文章であるが、これらの記述が全て真実である、という保証は無い。
 楊露禅の孫・少侯は蒙古族の呉図南を真摯に教導しているし、楊式の古伝の一つである「老六路」を理論的に整理・公開して名声を博した魏樹人氏の師匠・汪永泉は楊健侯・澄甫父子から真伝を受け継いだとされるが、汪氏の父・崇禄が皇族・溥倫貝子の管家=執事であった以上、彼もおそらく満人である(もともと健侯は、この溥倫貝子に太極拳を教授するために宮廷に赴いた、とされる)。何より、呉式太極拳創始者・(呉)全佑(=満人)に太極拳を教えたのは、楊班侯その人である。だから上述の逸話は、「楊家の二代目によって封印された秘拳」という触れ込みの方がカッコイイので、府内派伝承者の誰かが創作したものではないか?と個人的には感じたりもしている。(※宗家によって封印されなくとも、清王朝崩壊後、“旗人(満州貴族)の太極拳”である府内派を好きこのんで修行した漢人が多くいたとは考えにくく、修行人口が減ればそれに比例して真伝を受け継ぐ資質のある門下生も減っていくため、この流派が自然に衰退していくのは避けられなかった、と推測される。)

 また、府内派太極拳は十段階ものカリキュラム(套路)を有する特異な太極拳だが、それら全てが楊露禅が伝えたものである、という保証も無い。府内派太極拳の定義はあくまで、「楊露禅の拳法をベースに、(他の拳法をも融合させて)府内=宮廷内で醸成された満州族独自の太極拳の体系」とするのが妥当だろうと思われる。

 ただし、楊露禅が府内において真伝を隠すところなく教授した、というのは本当だろうと思う。今の時代から見れば楊露禅は太極拳の神様であるが、当時、北京に出た頃の露禅は自分のことを神様などとは思っていなかったはずだ。紅拳と綿拳を修行した末にようやく開眼した自らの流儀を当時の権力者が認めてくれたとなれば、自流の発展のために喜んで府内へ参じた、と考えるのが自然であろう。(そういうことを嫌う拳法家たちは、とっくの昔に揚子江以南に逃げて南拳の創出と普及に尽力していたはずだ…)

※特筆すべきは、楊露禅が宮廷内で拳法を教授していたのと全く同時期に、宦官でありながら武術の達人、という不思議なキャラクター、董海川が粛王府に出仕していた、という史実である(彼の拳法は後に「八卦掌」と呼ばれた)。 伝説によると、楊露禅と董海川は一度 試合をしたのが縁で親交を深め、互いに学び合うことで益々 各自の技量を高めていった、とか…

 楊露禅(1799年〜1872年)
 董海川(1797年?〜1882年)

 真偽の程は確認しようも無いが、完全に同年代の二人の天才が、ほとんど同じ場所で拳法を教授していたわけだから、交流が無かった、と考える方が不自然だろう。同時に、楊氏・董氏の二人の天才から武術を習う機会に恵まれた幸運な旗人(満州貴族)も、少なからずいたはずだ。

 だから府内派太極拳には創出当初から、八卦掌の技法や套路が少なからずミックスされている、と見る向きもある。(※余談になるが、太極拳と八卦掌、名前の由来が同一で、共に近代的な匂いがする。董海川存命当時、まだ八卦掌という呼び名は無かった、という説もあるので、太極拳という名称も、八卦掌命名前後の比較的新しい時代に創られたのではないか?と思われる。個人的には、楊家の系統に属する人間が名付けたものだろう、と推測しているが、これを以って楊式と陳式の優劣を論ずるのは愚かである。正統の陳式太極拳では“纏絲勁”を最重要視する、と聞き及んでいるが、楊式太極拳に この概念は無い。してみると、両者は全く異種の拳法、と位置付けるのが妥当だろう。

 いずれにしても、かの李書文や馬鳳図に金剛八式を教えた、とされる内外双修の怪物・李瑞東が、“楊露禅から府内派太極拳を学んだ”と明確に記録に残っている以上、この太極拳が オリジナルの楊露禅の拳、すなわち最古伝の楊式太極拳の風格や教授システムの一端を今の世に伝える非常に貴重な研究資料であることは、間違いないと思う。
(かつて大ヒットした聖林映画『ジュラシック・パーク』では、“恐竜の血を吸った蚊が琥珀の中に封じ込められた結果、そのDNAが現代にまで保存された”という設定が斬新でおもしろいのだが、府内派太極拳はこれと同様、楊露禅のDNAを紫禁城という特殊な環境下で凍結保存したタイムカプセルのように私には感じられるのだ。また、かの映画にもあったように、“DNAの欠損した部分に他のDNAを補填することで完成体を再創造する”ということが、この最古伝の太極拳の体系においても行われた可能性は否定できない。)


【府内派太極拳の主な系譜】

 1.楊露禅→2.富周(旗人)→3.富英(傑臣)→4.蕭功卓(公卓)

→5.蕭鉄僧(蕭功卓の子。「蕭氏内家拳系列」を発表)
→5.?英波→6.李正(「皇家太極拳系列」を発表)


【府内派太極拳の特徴】

○一般の太極拳が“弓式”を基本姿勢としているのに対して、府内派太極拳では“三体歩”と呼ばれる 八卦掌や形意拳と似た歩形を守りつつ、練拳を行う。(但し、その歩形は形意拳の“三体式”と同一のものではなく、平たく言えば、“弓式”の歩幅をグッと狭めて、かつ後足の膝を曲げて“溜め”を作ったようなかたちである。これと同様の歩形は、楊健侯伝の“老六路”や楊少侯伝の“楊式小架”、楊澄甫の系統に属する鄭子太極拳でも用いられている。)

○陳式太極拳が“砲捶”と呼ばれる二番目の套路を持っていることは有名だが(本当はこちらが一番目だった、という説もあるが、陳式の人と喧嘩になるので、ここでは敢えて論じない)、楊式府内派太極拳は、十種類もの異なる套路をカリキュラムとして有している。(陳式の“忽雷架”は第一路を何段階もの異なる様相で演武するが、府内派の套路はそれぞれが全く異なる独立した型である。)

「楊式府内派太極拳には十の套路がある。簡単なものからよりレベルの高いものへ、智捶→大架→老架→小架→長拳→小九天→後天法→三十散手→十三丹→点穴法 の順に学習していくようになっている。他に太極推手、太極球、剣、刀、棍、槍等がある。」(李正氏伝)


【府内派太極拳のカリキュラム】

@「智捶」
初めて太極拳に触れる人が学習する入門型で、太極拳の中に出てくる幾つかの基本動作を組み合わせたもの。太極拳とは如何なるものかを理解するための拳であることから、“智”捶 と呼ばれる。ヘイ身捶、搬ラン捶、栽捶、指トウ捶、肘底捶 等の拳打で構成されるところから「太極五捶」とも呼ばれる。

A「大架」
初心者のための型。気を静め、連綿不断にゆっくりと大きく弓歩を用いて行う。血気の通りを良くし、筋骨を丈夫にする効能がある。府内派の大架は現在広く行われている八十五式や八十八式と概ね同じである。

B「老架」
拳式と動きは大架とほぼ同じに見えるが、三体歩を用い、型に緊張感と正確さが求められる。身法・手法は実戦での動きに通じるものである。府内派太極拳の基盤を成す套路と言える。

C「小架」
老架に習熟した後、更に功夫を深めるために修練する套路で、打拳は速い。その手法、歩形、身勢、心意の働かせ方も老架と同じではなく、太極拳の高級功夫に属するものである。一つ一つの動作が全て実戦での働きに一致し、時に「フン!,ハ!」の発声を伴い、喜怒哀楽の感情を表出させる。この套路に習熟している者は、近年稀である。

D「太極長拳」
太極拳には37の拳式があるが、それら1つ1つを単独に練習し、習熟の後 任意の組み合わせによって演武するのが長拳である。したがって固有の型というものはなく、演者の嗜好、思惑、レベルによって変化する。呼吸と内功を重視するところから、「先天拳」とも呼ばれる。

E「小九天」
小九天は呼吸と内功を統一するための套路である。その名称は「宇宙は9つの階層より成っており、人もまた小なる宇宙(=小九天)である」とする道教の考え方に由来する。大自然の力―風、雨、雷、電 等を人体で再現することを主眼とし、太極拳の「剛柔相済」の理念を具現したものである。

F「後天法」
肘法、膝法の多用と明確な発力によって人間の攻撃本能を顕す。先天拳(長拳)と好対照を成す。

G「三十散手」
30種類の技撃手法を組み合わせたもので、楊式府内派の精髄とも言える。

H「十三丹」
十三内丹功法とも言う。13種類の動物の姿態を取り入れた動作で内功を養うところから この名が付いた。太極拳の高級功夫に属する。

I「点穴法」
上述の9つの技法を全て習得した後に初めて伝授される奥伝である。24の手法と72の変化技があり、指突、拳打、肘打、擒拿を駆使して行われる攻撃の応用変化は無限である。学習者はまず人体各位のツボの位置、名称、作用を正確に記憶し、更に指を鍛え、攻撃に有効な速度・角度をも研究する必要がある。


(参考:府内派太極拳 第一路〜第十路 簡介/李正演示)
http://www.youtube.com/watch?v=uGiiydfsSbg


【考 察】
 第一路「智捶」に関しては、よく検証してないのでわからない。ただ、李式太極拳に「五星錘」等の套路が伝わっている点から考えて、楊露禅存命当時から初心者の基礎功夫を練るために採用されていた可能性はある。

 また、第五路〜第十路に関しては、入手できる資料が極めて少なく、動作も伝承者によって全く異なっているため、ここで論じることはできない。ただ、これらの中には肘打を多用する外家拳のような激しい動きの型も含まれており、楊一族が少林系の術者に勝利するために、“太極拳的でない”あらゆる攻防技術を研究していたことの証左になりはしないか?と思えたりもする(開祖・露禅の初学である紅拳の技法が この中に混ざり込んでいる可能性も否定できない)。
 ※ちなみに、楊一族の中で最も気性が激しかったことで有名な楊少侯は、“点穴”を得意とした、と伝えられる。

特に注目したいのは、府内派の第二路〜第四路(大架,老架,小架)である。
府内派大架は、楊澄甫(三代目)やその高弟たちが伝えた套路と、ほとんど同じである。
府内派老架は、楊健侯(二代目)の伝えた“老六路”や(なぜか)楊澄甫の弟子の鄭曼青や董英傑の架式と趣きが非常によく似ている。
府内派小架は、楊少侯(三代目)の小架や 少侯の弟子・呉図南の“用架”、また武式太極拳・小架 などと多くの共通点を有している。
(※なお、これらの套路は全て 古伝と同じ108式である)

、「楊澄甫の大架は武術とは言えず、最も実戦的なのは楊少侯〜呉図南の楊式小架だ」という俗説を多くの人が長年信じ込んでいる。ところが、府内派では大架、老架(中架)、小架のすべてをカバーしており、しかもこの三套路を「@大架→A老架→B小架」の順に段階的なカリキュラムとして定義しているのである(この辺は、陳式忽雷架の概念とほぼ同じ、と言えよう)。

 目から鱗、だった。どれが最も優れているか?ということではなく、もともと三位一体だった、と仮定すれば、全ての疑問は氷解する。蕭鉄僧氏がビデオの中で語っておられるように、大架=楷書、老架=行書、小架=草書、のように、書道三体のイメージで捉えると、より理解しやすいのではないか?と思う。

 ところで、書道の歴史において、草書・行書が先に現れ、その後に一般普及用の活字体としての楷書が作られた、という経緯を、皆様はご存知だろうか?
 以下はあくまで推理、というよりも単なる空想に過ぎないのだが紹介したい。
 開祖・楊露禅の拳は、府内派小架と同様の快速の拳だったと思う(その師である陳長興の“綿拳”も速く激しい拳だったのではないか?)。
 ただ、自らの拳の本質を息子や弟子に伝えるためには、攻防の際の人体内部のメカニズムを理解/深化させるためのエクササイズが別に必要だと感じた露禅は、練功用のプログラムとして 緩やかで精密に動く“老架”を考案したのではなかろうか?
 また、老架〜小架の動きに馴染めない長拳系の学生(この時代、入門者のほとんどはそういう人たちであったろう)や全くの武術初心者のために、長拳の架式に近い“大架”を整備し、これを入門型とした、とは考えられないだろうか?
 更に想像を逞しくすれば、父・楊健侯や伯父・班侯に家伝の功夫をみっちりと仕込まれた少侯は、祖父の拳(小架)を忠実に再現することに執心し、その弟である澄甫は、時代の要求を敏感に察知して、大架を体育目的に再編成した八十五式の宣伝・普及に努めた、とは考えられまいか?(無論、彼は父や兄の拳も、当然熟知していたはずである。宗家に対して甚だ失礼な言い草だが、晩年 極端に肥満してしまったことで、澄甫は後世の評価において少なからず損をしているように思われる。。。)

※李正氏は府内派大架について解説する際、「…武術としての功能を求めず、ただ体力の増進/健康の維持のみを目的とされる方は、この大架の練習だけで十分である」という意味のことを語っておられる。裏を返せば、「大架は武術として使いものにならない」とおっしゃっているようなものである。
 ちなみに我々の知り合いが昔、1年近く楊式大架ばかりを練習しつづけたところ、酷い腰痛になってしまった。師伝を受けずに我流でやっていたのがそもそもいけないのだが、それ以来 個人的に大架を信用していない。何より、楊式太極拳は足から威力を発する、と言われているが、後足をまっすぐに伸ばした大架の弓式からでは、下半身が固定化されてしまうために太極拳特有の力が出せないはずだ(四六式から弓式に移行することで威力を発生させる陳式老架とは、もともとメカニズムが異なっていると考えられるので)。

※また、逆に楊式小架のみを練習しても、フニャフニャの形意拳もどき みたいなのが出来上がるだけで、武術として役に立つとは到底思えない。呉図南の太極拳は小架(用架)ばかりが有名だが、カリキュラムとして呉式太極拳をベースにした“練架”というのが別にあり、ゆっくり動くどころか定式毎に一定時間静止する練習法もあったようである。私はやはり、楊式太極拳の練功の中核を為すのは“老架(中架)”だろう、と信じている。

※楊班侯=小架、という記述がネット上に多く見受けられるが、一概にそうとも言えない。
(楊班侯伝 低架)
http://www.youtube.com/watch?v=BrIcXONHd2I
(楊班侯伝 大功架)
http://www.youtube.com/watch?v=A2B89svVc_Q

 楊家拳の伝承者たちは全員、(少なくとも)老架・小架の両方を併習していたと考えるのが妥当であろう。


【府内派太極拳についてのあとがき】
 以上のとおり、府内派太極拳からの視点から楊家系の太極拳の架式(套路の外見的な姿勢/速度)のみにスポットを当てて論じさせていただいたが、内家拳の本質的な相違は本来“内功”の差異を以って論ずるべきであり、拙文は太極拳のごく表層的な部分(上っ面)を撫でたものに過ぎない。何卒御容赦いただきたい。



 だが楊露禅は楊家の子弟や信用のできる高弟たちだけにしか教えなかった秘伝型があると主張する楊式(家)太極拳の流派がある。それは台湾の王延年老師が伝えた楊家秘伝太極拳である。

 楊露禅は「楊無敵」と称され有名になっていくうちに、その武名を聞き、時(清朝)の朝廷の高官なども教授を受けたいとする者が出てき、楊露禅の弟子に加わった。清朝は満州族が起こしたものである。楊露禅は異民族である満州人である彼らに対して太極拳を教えたくはなかったが、時の権力者たちに逆らってまで事を荒立てたくなかったので、そこで楊露禅は本来の太極拳の型を隠しながら教えたのである。従って現在一般的に流行している楊家(式)太極拳は、その時に楊が教えた似たような偽物であるというわけである。従ってその説が正しいとなると楊家太極拳から出てきた全ての太極拳は同類ということになる。本物の太極拳の型は表に出ることなく、楊家の子弟や信用のできる高弟たちだけに秘密裏に伝えられていったのである。その秘密裏に伝わってきたのが「楊家秘伝太極拳」というのである。

楊露禅−楊班侯
      楊健侯−楊少侯
            楊澄甫─鄭曼青
            張欽霖─王延年─李進川

楊家秘伝太極拳とは


王延年老師


民国五十年初 中華民国太極拳倶楽部(のちの中華民国太極拳総会)設立当時のメンバー
右から2番目が王延年老師、左から4番目が日本でも有名な王樹金(形意拳)、左から5番目が陳半嶺(太極拳)
その当時王延年老師は総教練を務められていた。





王延年老師に楊家秘伝太極拳を伝授した
楊家秘伝太極拳第三代・張欽霖








王延年老師の高弟である李進川老師による楊家秘伝太極拳


秘伝の型 楊家秘伝太極拳 動画


楊家秘伝太極拳/李進川演示
この太極拳の特徴は秘伝型だけでなく、王延年老師は太極拳の他に金丹派という道功を練習した人なので、丹田呼吸を重視し強い気を発するものであり、足を前進する時は引き足を含んだり、重心を常に後ろ足に置くのが主であり上下起伏運動をしながら勁を発しており、勁道が他の太極拳と比べてとても明確である。ラセン運動も明快である。それに以上の写真の通り心意拳六合ではないかと思われるような肘打ちや体当たりの技法も見られる。やはりこれらの動きを見る限り“炮拳”と名乗っていた当時の太極拳はイスラム拳法の技が多く取り入れられていたのではないか!? これらの楊家秘伝太極拳の動きを見るだけでも一般に伝わっている太極拳とは大きく異なり攻撃性が高い太極拳だとおわかりであろう。

従って楊家秘伝太極拳では秘伝の型を練習している自派を『武派』だといい、その他の太極拳を『文派』といい区別している。

この秘伝の型を練る楊家秘伝太極拳は第一段、第二段、第三段というふうに套路が構成されている。同じ楊一族の間で秘伝視されて練習されてきたとされる上述の府内派太極拳の練習体系とは大いに異なる。






発勁で相手を宙に浮かせる王延年老師 相手を務めているのは李進川老師
幼少の頃から虚弱体質だった李進川老師は王延年老師から楊家太極拳を学んでから見違えるように体質改善されたという。
李進川老師曰く「人間は呼吸が大切だ。呼吸ができなければ人間は生きていられない。我々の太極拳は気が大切だ。丹田呼吸によって気が強くなるんだ。だから高齢になった私でもこうして練習ができるんだ」とのことでした。








続きは次のページへ
楊家秘伝太極拳の練習とは!?



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