奇才 馬賢達老師

写真資料提供/馬賢達老師

文/馬賢達入室弟子 小林 正典



中国の著名武術家である馬賢達老師。多くの名人、達人を倒して全国に勇名を馳せた。現在実戦でその実力を証明した数少ない武術家である。



1953年11月に全国短兵格闘試合にて優勝した時のもの 2000年陝西賢達武術学院の校内で撮った一枚の写真
 左は準優勝の王建奇。強敵であった。        後ろに立っているのは筆者の小林正典氏


1954年陝西師範大学で教鞭を執っていた頃に、生徒に   現在イギリスに住んでいる長男・馬越氏に独自の訓練
短兵格闘を教えていた時。今回は馬賢達老師の入室弟子  方法を指導する馬賢達老師。ライバル王建奇との戦
である小林正典氏から短兵に関する文章を書いて頂いた。          いによって編み出した「活目標」である。




 わが師馬賢達(身内人により敬称を省略する)は中国の著名な武術家であるということは皆さんもご存知かと思う。
わが師は全国規模の大会などの非常に高い水準の中で多くの高手たちと数々の試合をし打ち勝ち、実際に証明してきたのである。この点に注目されたい。

 わが師馬賢達は、5歳半から父・馬鳳図について武術を学んだ。馬家は先祖から武芸を伝える家柄であり、先祖代々「武術の郷」である滄州に住んでいたのである。師の先祖は「大刀王五」として非常に有名な王正誼や「関東の大侠」馬芬爺、そして「双刀」李鳳崗などといった滄州出身の近代の著名武術家と親戚であったり、交流があったりしたのであった。馬賢達はそんな環境の中で幼少から武術を修行してきたのである。
 馬家が伝える武術は通備劈掛拳が核心であり、滄州の武術家、黄林彪から伝わったものである。黄林彪は劈掛拳の宗家にあたる人であり、馬鳳図は黄林彪から全伝を受け継いだ唯一の人物だといわれている。通備門の武術は発勁をおこなうのに「呑吐開合」「起伏捻転」という独特の身法または身体運動を用いているのが最大の特徴である。それらの身法によって用いて発せられる「通備勁」は弓矢の伸弛や弾力に例えることができる。馬鳳図はよく四人の息子たちに(馬穎達、馬賢達、馬令達、馬明達)通備勁道と弓力によって矢を放つ原理、その運動作用と合わせて講義したという。

「通備勁」は具体的に説明すると「呑吐」「開合」「起伏」「捻転」の四種の動きによって構成されており、これらの四種の動きが一つに統合されて運用されるのである。
簡単に説明してみると、「開合」と「呑吐」は身体の伸縮運動であり、一組として説明した方がいいだろう。「開合」は、胸腹の凸凹による身体操作によってできた力である「呑吐」をさらに弓矢を引く時の弓の張弛作用のように身体の蓄と発の動作をおこない、それによって「開合」と「呑吐」の二種の勁が強く協調され発揮できるのである。
「起伏」とは、動作をおこなう時、または敵と向かい合った時に、身体を高低起落させて動くことにより、「猛起硬落」が強調されるのである。虎伏鷹揚するかのように千変万化に身体を変化させ自分の戦いを有利にもっていくのだ。「捻転」とは上盤、中盤、下盤の全身体を捻ることによって出される「螺旋勁」のことである。「捻転」による運動によって移動する時に疾速な変化ができる歩法を生み出すことができるし、強い力を相手に伝え打倒することができる。
まとめてざっと説明してみるが、縦回転による運動(胸・腹・背中・腰)である「呑吐」に、身体を開いたり閉じたりする運動である「開合(求心力と四方八方に散らす力)」プラス「起伏(上下運動)」と「捻転(身体を捻る回転運動)」といったかんじである。よって通備劈掛拳は円による軌道の打撃や突発的な打撃など千変万化な動きをし、さらに強大な発勁を打ち出す拳法なのである。
 ついでに脊髄について簡単に説明してみるが、特に脊髄の中心部分である脊中という所は上盤(上体)、中盤(中体)を繋ぐ重要部分であり、ここの運動操作が間違っていると、上盤と中盤の動きが空回りしてしまい、力(勁)が滞ってしまう。
通備門独特の「呑吐」の身体操作により脊髄の中心部分を自由に働きかけて上盤(胸と背中)と中盤(腹腰)を連結作業をさせ、しかも尾骨仙骨部分の操作と腰腿の捻りの操作をも協調させると、速度、威力が増加するのである。
よって身体操作による重心を相手にぶつけるような打撃が可能となるのである。長い距離から打撃して打つ長勁だけでなく、中国武術独特の暗勁のようにごく近い距離の接近した距離から相手の体内に衝撃を与えれるような打撃も、これらの身体操作原理によって可能となる。

  もう一つ、「轆轤勁」について簡単に説明するが、一言で言うと、通備劈掛拳は円による回転の動きにより構成されている拳法である。「轆轤勁」は連続して回転することにより、打ち出した勁を途切らせない勁である。円だから決して途切れることはない。例えば、「劈勁(上から下へ切り下ろす力)」と「滾勁(捻って転がして発する力)」は本来別々の異質な力(勁)である。だが通備劈掛拳独自の柔らかい自在な身法による作用と反作用により生じた力と円による手法等の動きによって、円滑に途切れずに快速に回転し、2つの別々の勁がまるで一つの勁になったかのように途切れずにおこなわれるわけである。
よく聞かれる質問だが、通備劈掛拳も直突きは存在する。先ほど説明した独特の身体操作と全身を緩めて発した「放長撃遠」「両肩条直」により連射の突きが打てるわけである。これには段階を踏んだトレーニングが必要だ。少し話がずれてしまったかんじだが、身体を弛めて連射で拳を打つことにより、途切れずに回転の速い「轆轤勁」となるのである。
ついでだが、「劈勁」を打つ場合でも必ず先ほどの説明したとおり上盤、中盤、下盤の全身体の運動協調により統合されることにより勁を発するわけであるから、某武術雑誌で研究家が書いているような、下盤の操作による勁ではないことをお伝えしておく。

 八極拳は、馬鳳図の母方の実家が代々八極拳(孟村系)を伝える家柄であったので、呉家から伝わってきたのである。また、父・馬鳳図はその弟である馬英図(馬賢達の叔父にあたる)を羅瞳に差し向けて、当時の羅瞳八極拳の宗家である張公臣(景星)に拝師させ羅瞳の八極拳を習得させている。よって馬家の八極拳は孟村系(回族)と羅瞳系(漢民族)の2つの代表的な八極拳を取り入れ、お互いの長所を融合していくことになる。また馬鳳図は不断に八極拳の研究を重ね、当時の八極拳の名家を訪ね歩き、呉会清、強瑞清、李書文などといった当時の八極拳名家と広く交流をされている。よって片寄った固執な見方でなくわりと公平な目で八極拳の研究をされていた。晩年になってからも馬鳳図は弟子と対打の練習をし八極拳の技術の工夫を努めた。馬家の八極拳は孟村八極拳と羅瞳八極拳に劈掛拳の勁道を取り入れており身体の起伏伸縮が激しく、筋骨の動きや経絡の流れを合理的に使っているのがわかる。さらに翻子拳や通臂拳、蟷螂拳の動きも取り入れ手技などの技法が巧妙になっている。かつてはまったく別々の拳法であったものが、一つの共通原理によって貫かれ完成されている。

 翻子拳はわが師馬賢達が好んでいる拳法の一つである。翻子拳は快脆、剛猛な拳法であり、満身の力をこめて拳を打ち出しながら連打し一直線に進み、その勢いはまさにバクチクのようである。翻子拳の歴史は非常に古く、明代の名将、戚継光もそれを褒め称え、「旗鼓勢」や「当頭砲」などの多くの翻子拳の動きが、戚継光が著した「32勢」の中に紹介されている。よって明代当時から実用的な拳法で知られていたことがおわかりであろう。馬賢達の翻子拳はまさに通備の翻子の動きを体現したものであり、突発的に身体を縮めたかと思うと、一気に満身の力をもって身体を開ききって豪快に打ち出されている拳は強力だ。馬賢達の快速で豪快な翻子拳は広く武林界に知られている。

 わが師が言うには、父・馬鳳図が武芸を弟子や息子たちに指導する方法は、普通のやり方とは違っていたとのこと。
 一つ目は武学(理論)をも追求し、武技だけでなく、理論も同時に学ばせた。
 二つ目は套路と散手などの実用技術を同時に学ばせた。中国武術は高度な理論体系によって形成されているが、高度な理論体系があるが故に、理論ばかり走り、実用を疎かにする傾向が、全中国武術界に見受けられる。よって馬鳳図は弟子や自分の息子たち実用も備えた練習をさせた。
 わが師は、兄上である馬頴達師伯と幼少の頃からずっとよく一緒に練習した。功力が高い兄弟子である王天鵬や母方の伯父に当たる羅文源たちも一緒に練習に加わり、対練や散手の練習をしたりした。よく体中にアザだらけになっりしたそうだが、それを忘れ夢中になって練習してたという。
日本との戦争や国共内戦があった当時だったので、多少の生活が困難な時があっても続けて練習を重ねたという。それは誰にも負けない功夫を身につけるためだったとのこと。「足易木庄」「才率掌」や砂袋など打ったりする練習をしたり、大杆子(六合大槍の練習で使う大きくて長い棍棒)の練習も不断に練習していったそうだ。
 16、7歳で、すでに劈掛拳、八極拳、翻子拳、戳脚などの拳法や武器に精通したばかりではなく、散打の技撃も他に追随を許さないぐらい超越したのであった。
 わが師馬賢達はよく言う「子供の頃から、技撃のレベルが高い兄・馬穎達や師兄弟たちと常に手を交えたりしていたものだ。多くの武術を練習する者にとって、私たちほどこんなに恵まれた環境ではなかったと思う。これは父のおかげだ」

 それから故郷蘭州を離れ、天津河北師院体育系に通うこととなる。こうして実家の蘭州から離れて、新天地で学ぶこととなった馬賢達は武術だけでなく、大学で学んだフェンシングやボクシング、シュアイジャオといった技撃性が高いものも熱中させたとのこと。
 わが師が言うには「私は大学の時、ボクシング、フェンシング、野球、バレーボールなどをやった。中国の武術は悠久の歴史がある。長い歴史を経て、今の時代まで伝わってきたが、だからといって中国武術だけが特殊なものだと思ってはいけない。私は学生の時に学んだこれらのスポーツも私の武術に役に立ったこともある」

それから天津で挙行した全国規模の民族体育大会の散打部門と短兵部門において弱冠19歳の若さで参加して優勝をしたことは、もう皆さんもご存知のはずである。
 この散打試合は現在の形式のものとは違い、拳や掌、脚の攻撃の他に肩、肘、膝による攻撃も可能であるフルコンタクトで打ち合う試合であり、投げや関節技も可能である実戦に近い過酷な試合であった。その中で当時19歳の大学生の身である馬賢達が快速な突きで次々と実力がある武術家を打ち倒して優勝したことは前代未聞のできごととして知られている。

そして翌年の1953年に全国短兵格闘試合に参加することとなる。今回は全国短兵格闘試合に参加した出来事を紹介してみたいと思う。

 短兵?といっても日本人にはあまり馴染みがない言葉である。短兵とは、簡単に言えば、日本の剣道と同じように防具を着用し、短い棒状の武器を用いて自由に打ち合うものである。
 短兵の歴史は非常に古く、伝統武術の一つである。その起源は中国古代の撃剣であり、数千年の歴史があるという。よって剣術及び撃剣は、古代から伝わる中国民族の伝統の真髄ともいっていいし、民族文化を象徴する競技であるといっていいだろう。
 短兵が正式に世に出たのは、1928年南京でおこなわれた「第一回国術考試」の時である。南京中央国術館の設立当初、わが師である馬賢達の叔父上にあたる馬英図を中心に、朱国瑞、朱国福、朱国禄兄弟らと一緒に普及活動を推進させた。
 こうして馬英図らによる競技制の短兵が創立された当初は多くは日本剣道を参考にしたものであったが、これら主導者は、中国の短兵の武器とは異なる日本剣道の区別を明確化にし、また中国の古代文化の精神を表現するため、「撃剣」と当初は称していた。中国の短兵は刀、剣、鞭などがあり、これらの異なる武器を一つのルールにまとめるのは困難だったという。
こういうふうに普及していくうちに、いつの間にか「短兵」という名で呼ばれるようになり、現在に至る。

 そしてその後、新中国成立したばかりの当初、政府の提唱と武術組織により、盛んに武術大会がおこなわれることとなった。それにより、全国各地で挙行されるようになり、各地でそれぞれチャンピオンが出た。よって全国で誰が一番強いか?そんな声が出てくるのも自然の流れであった。
そして1953年11月に中国の国体にあたる舞台で全国のチャンピオンを集めて挙行されることとなった。
散打は前年1952年天津で挙行された大会で(中量級の優勝者は馬賢達)多くの負傷者が出てタンカで運ばれるというあまりにも悲惨な結果となったので、中止され、よって全国短兵格闘試合が正式種目の一つとしておこなわれることとなる。
この短兵大会は、全中国の四大地域から6人の代表選手が出場し、その結果、当時大学生の身であった馬賢達が華北地区の代表として参加し、この大会は総当りリーグ戦であったが、5戦無敗という記録で優勝を果たした。2位は同じく華北地区代表である王建奇であり。3位は東北地区代表の孫徳興であり、ちなみに馬賢達の兄上である馬穎達師伯は西北地区の短兵大会に優勝を果たされ、この大会に西北地区代表として参加され5位の成績を収められた。

 馬氏兄弟が同時にこの大会に出たことは、注目の的となり、雑誌などで広く知られることとなった。その戦いは記録映画に保管され今でも語り草となっている。

 当時こんな面白いエピソードがある。馬賢達と仲が良い同級生であった華北地区代表の王建奇は短兵の軽量級のチャンピオンであった。(※中量級は馬賢達である) 当時天津の武林界や武術愛好家たちは、馬賢達の剣法が上か、それとも王建奇の剣法が上か、この2人の優劣について盛んに評論していたとのこと。
 馬賢達と王建奇の2人は共に1951年、1952年の連続チャンピオンである、階級別であったため、この2人はまだ鋒を交えたことがない。よってこの2人の対決はこの大会の最も注目される好カードとなったのは必然である。
誰が強いのか?どっちが優れているのか?全国の武林界の話題になるのは自然の流れであった。
特に王建奇の剣技は「打腿術」を得意とし、相手の脚を打つのが優れていた。王に脚を打たれると、相手は必ず脚に火傷を負ったような痛みが走り、もんどりうって倒れた。まさに、百発百中といってもいいようなその剣法は、人々から「王剣客」と呼ばれていた。
1952年の試合の時に、王は日本に長年住んで、日本剣道の高段位を修得した王伯川と戦い、連続攻撃で2回も王伯川を打倒させ圧勝したのだ。
それにより王建奇の名は広く知られるようになった。今までは階級が別々だったことにより対戦はなかったが、今回は階級別を分けて試合はしない。全国のチャンピオンを結集させ決戦をおこなうからである。
 馬賢達は王の繰り出す狂猛な剣技が脳裏にはりついて離れることはなかった。「王建奇は得意技があるが、私にも同様に自分の得意技があるのか?王建奇と同様なことをしても勝てない」と心の中で思いながら、今まで身につけた剣技を繰り返し練習してみたが、不安は晴れなかった。
伝統の練功法である砂袋、木木庄などを練習したが、これは死んだ練習であり、実戦とはかけ離れている。「王が技を繰り出させずに、私の攻撃を命中させなければならない。だから活きたものを打つ《活目標》訓練の練習をしなければならない」との結論に達したというのだ。
しかし、どのような練習をしたらいいかわからない。そうしているうちに大会まであともう5ヶ月になっている。どうしたらいいか?
 と思い続けたある日、テニス場を歩いていた時、テニスボールが馬賢達の目の前に飛んできた。そのテニスボールをとってみると、弾力性といいぴったりだ。「テニスボールは弾力性がいいから、大きくバウンドする。これを《活目標》の練習に利用できないか?」そしてすぐに器材室に飛び込みそこにあったテニスボールを再び手にする。「このボールは弾力性があるから、すぐに跳ね返ってくる。もし早く打てば、早く跳ね返ってくる。強く地面に向かって打つと高く跳ね上がる。まるで生き物のようだ。これを活かさない手はない」。
 それから後、毎日一日中、訓練部屋で《活目標》の訓練をおこなった。相手に投げてもらったり、紐でくくって宙吊りにしてそれを打ったり、いろんな練習ができる。テニスボールは球体が小さいので、正確に強打できるように意識し練習した。剣技を自在に操る操作能力、そして手首の強化を努め、瞬間的に3連発打てるようになった。それからバレーボールを使って劈刺の練習をおこなって反応の訓練もした。こんどはサッカーボールを使って剣技の力量アップもおこなった。最後に、3つのボールを同時に使って各剣技法を繰り出し、霊活性、正確性、そして打撃力が身につき、技巧と身体が一体となった。
 そして短兵大会がおこなわれる前の秋には、これらをすべて克服し、そして大会に臨むこととなる。結果は、これらの訓練をおこなった馬賢達が王建奇の得意技を封じ、優勝を果たした。

 われら通備門は、「融通兼備」を尊重し、今まで学んだ技術を訓練を重ねながら、自分が足りないものを他で補う、そのことによって元来のものよりよく進化していくのである。
けっして武術は骨董品ではない。先師を神格化するあまりに、現在の自分の技術、現状に固執しているだけではけっして進歩しないものである。永久に変化しようとしないものは必ず衰退していくものだし、己の芸の生命力に悪影響を及ぼしてしまう。それが通備武術の基本的理念である。





馬老師の父であり、通備門創始者・馬鳳図(80歳の頃) 東北代表の孫徳興(左)を相手に攻撃の機会をうかがう。
 馬老師の強さは父の厳しい指導によるものだという。 全国短兵格闘試合は各地区のチャンピオンが集められ覇
     を競った。



兄・馬穎達(左)に猛烈な攻撃で追い込んでいく馬老師 兄・馬穎達(左 白服)を下して勝ち名乗りを上げる
幼少の頃より共に修行してきた兄弟は離れ離れとなり、 馬老師(右)。試合後、兄から必ず勝ち進んでチャンピ
ついに全国の大舞台で覇を争うこととなる。    オンになれと強く激励されたとのこと。



馬賢達老師の入室弟子である小林正典氏による八極拳「大纒」
馬氏八極拳には「滾勁」「呑吐勁」「轆轤勁」が取り入れられより発勁が強大になっている。小林氏に八極拳を披露してもらったところ、
氏の動きは一見武術の姿勢のとり方の原則である「立身中正」を無視しているように見えるが、身体をうまく起伏や伸縮したりして
力強く動いている。小林氏の長年の修練によって身についたものだと思えた。




劈掛拳の武器で有名な風磨棍
棍先に槍の穂先をつければそのまま槍でも戦えるのだ。南京中央国術館より伝わった瘋魔棍とは別のものとのこと。
馬家に伝わる風磨棍は馬鳳図が張家口に滞在した時に「奇槍」「五十五図棍」「八十八棍」を組み合わせて作ったものらしい。




西北地方の武器で有名な鞭杆 五陰
馬鳳図は西北に移住し、弟子たちに西北棍術を学ばせた。馬家に伝わる西北棍と鞭杆は元来の技法を残しながら、通備勁を
採り入れ独特の風格になっている。 また、馬鳳図は南方へ旅で赴いた際に、現地武術家と交流し、現地の南派の民間武術家の間で
継承されてきた短打拳法と死把棍などを研究し、視野を広げていったという。  馬家は西北地方の棍の家元と見なされている。



筆者プロフィール
子供の頃より武術を志し、名師を求め探し回るが、80年代当時の日本には良師がいないと判断し、中国での修行を志す。
18歳の時に、中国武術最高峰である馬賢達老師と出会う、それから馬賢達老師に師事し、厳しい修行を経て、馬老師の大きな信頼を得る。
馬賢達老師及び馬老師の家族の人々から「家里人(家族の意味)」と認められるようになる。その後、馬賢達老師に拝師し入室弟子となる。
そして馬賢達老師から直々に師範の免許を授かる。その馬老師の支持のもと、日本初の正式通備武術団体、馬賢達通備武術学院日本支部
を開設する。自身が習得した通備武術の他に、内功及び各種練功法の研究おいても精通している。

馬賢達通備武術学院日本支部ホームページ<ここをクリック>


☆日本で馬賢達老師直伝の武術を学びたい場合は★tongbeijapan@excite.co.jp

■通備拳の練習風景動画についてはこちらから<ここをクリック>

    









日本の関東軍が恐れた馬英図が率いた「大刀隊(敢死隊)」
馬鳳図と馬英図は西北軍閥総司令の馮玉祥将軍と知遇を得て軍隊に入った。


訓練で刀法を練習している「大刀隊」の兵士たち。    これが「大刀隊」で使用した刀である。日本兵を苦しめた。
馬鳳図と馬英図は苗刀などを主体とした通備刀を馮玉祥将軍の部隊に指導したのである。




短兵の技術動作 《中国短兵》馬賢達著より 模範  馬越氏 馬侖氏

文革などの動乱により、武術性が失われてきた長拳等の競技武術、または健身目的だけの太極拳が台頭してきたことにより、
多くの武術がその影響を受けてきたが、通備門はこれらの影響をまったく受けずに武術性、格闘性を追及し、同門内のみで散手、短兵等を練習を続けてきたのだ。
筆者である小林氏もこういった修練を馬賢達老師の指導の下で受けていたとのこと。今回日本初公開である。


平刺→反石欠


甲は真っ直ぐ突く(写真左)。乙が反応した瞬間に、甲は体を翻して乙の脚を打つ(写真右)

点→崩


甲は剣先で乙の脚を突く(写真左)。乙が反応した瞬間に、甲は乙の手首を打つ(写真右)

→反架→石欠腰


甲が頭部に打ってきたのを乙は受け止める(写真左)。甲の圧力を利用して乙は体を翻して甲の腰に打ちこむ(写真右)

お薦めの本

《中国短兵》馬賢達著(中国語)


中国最高峰の武術家・馬賢達老師自らが技術解説しています。歴史的に非常に価値あり!
お買い求めは陝西賢達武術学院の日本窓口である馬賢達通備武術学院日本支部まで。
詳細は東京本部までお問い合わせ下さい。







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