回教徒と中国武術の関係


文/中国武術WEB編集部




元プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメッドアリ氏(中央)が西安市内の清真寺に訪れた際のもの
そのアリ氏の右隣の白い帽子を被って立っているのが中国武術の著名武術家である馬賢達氏。
中国でイスラム教を信仰する回族は独特の白い帽子を被る習慣がある。清真寺は中国のイスラム寺院であり、
イスラム風の建物が建ち並び、アラビア文字が目につく。神聖な場所なので、整備され、ゴミ一つ落ちてない。
そこはまさにアジアとは別世界のようである。そのイスラム教(回教)と中国武術の関係を紹介していきたい。
写真提供 小林正典氏





大力千斤王と称された王子平。
ロシアのレスラーを倒したり、武勇伝が多い回族武術家である。
同じ回族の著名武術家・馬鳳図などと深い親交があったりした。
王は南京中央国術館少林門長などを歴任した。


    


 回教徒(回族)はイスラム教を信仰する中国の少数民族であり、中国の少数民族中で最多の人口を占めている。回族の「回」は回教(イスラム教)を示し、回教徒を穆斯林(ムスリン)と呼んでいる。回教徒は豚の肉を食べず、羊や牛の肉を主食としている。
 中国は紀元前からローマ帝国をはじめとする西域諸国との交流があり、陸路(シルクロード)などによる交易が盛んにおこなわれており、移住してくる渡来人も多かった。 七世紀にマホメットがイスラムの教えを開くようになると、中央アジアやアラブ諸国からの渡来者によりイスラム教が中国にも伝わり、中国の西域に住んでいるイスラム教を信仰するトルコ系の民族である回鶻(ウィグル)族の名からイスラム教を「回教」と呼び、その回教を信仰する民族を「回族」と呼ぶようになったのである。

回族は団結心が強く、好戦的な民族であって武勇に非常にすぐれていた。さらに西域の文化にも通じていたため、蒙古人(モンゴル人)が建てた元王朝には蒙古人に次ぐ地位を与えられ、医学や天文など文化面から、交易、軍事面まで多方面で活躍していた。
回族は特に武芸によって元王朝前期から深く関わりがあり、陰で軍官を支えていた。このような状況は明王朝まで続き、その間、こうした一部の世襲軍人から武芸で生活する職業武師、あるいは武術教師へとなっていった。こうした回族の人たちは旅をし戦いながら、または民間などに身を寄せて護衛し、世襲制の武芸職業家族へとなっていった。このようにして武術、シュアイジャアオ、弓等といった武芸を家族代々伝えたえていた。こうした習慣は現在までへと続く。

 明代に入って、特に明代初期の朱元璋(明太祖)による民族差別視の政策の下で圧政を受けたことにより、回族は社会的地位と文化は大きな変化が起こった。そのことによって回族は漢族と異なる独特の文化体系を形成していった。特に異なる点は、文を重視し、武を軽視するようになってきたのが当時の社会背景であったが、逆に回族は強健な体と武勇の精神を追求していったのである。
 このように武勇にすぐれていた回族であっても、こうした封建時代においては小民族であるがゆえに官使への道もなく、立身出世の方法は、一にアホン、二に武術家、三に料理人とされていた。
 こうした封建時代の間、回族の間で、特に郷村の回族の居住地区の中で、武術を練習してきた。 こういった回族の居住地区からのちに「武術の郷」や「シュアイジャオの郷」と呼ばれる地域が出てきたのはいうまでもない。

 明代の将軍・戚継光は、当時中国東岸に侵入してきた倭寇(日本人や中国人による海賊)を退治するために、兵士を強化せんとして、軍事訓練とその強化のため、中国全土にある実戦に有効な武術を調査したのである。それを調査しまとめた書物は「紀效新書」の名で刊行され、当時の武術事情を知るに好資料として今でも多く研究されている。
  その書物の中に当時の槍の名家として記されている「楊家槍、馬家槍、沙家槍」の3つの家のうち、馬家と沙家は回族であるとされている。(※中国の著名武術家である馬賢達氏はその馬家の子孫である)
  清代になり、清王朝が主催した武舉考試においても、多くの民間回族拳士がこれらの国家試験に受かり、中華民族体育の形成に多く貢献したのである。その清代には「回回十八肘」、「沙家拳」といった明らかに回族の名を表した拳術が出てきた。これら拳術は現在では失伝したものが多く見られる。

 よって回族と中国武術の発展は密接な関係があり、現在に至るまで回族から多くの著名な武術家が出ている。
 その事例として、1999年中国の国家が武術管理としておこなった、所謂「武術段位制」がある。最近、中国国内及び海外の武術家が獲得しているが、2001年時点で中国武術の最高段位「九段」は計5人いた。そのうちの3人張文広、何福生(故人)、馬賢達は回族であり、ようするに中国武術の最高段位は回族によって占められていたのである。

 回族の居住地には必ず「清真寺」と呼ばれるイスラム寺院があり、寺院の住職はアホン(ペルシャ語の音訳で回教の僧位)と呼ばれ、武術に長じている人が多かった。
  イスラム教の創始者であるマホメットは伝承によると、数々の神秘的な奇跡をおこしたとされるものがあり、気功あるいは武術?の達人ではないかと、思われるものもある。たとえば、旅の途中に、2頭のラクダが熱さの疲労で倒れたのを、手で撫ただけで治し、もとのように歩けるようにしたなど・・・・マホメットが気功でいう外気による治癒能力を持っていたと意味している。また、いつ砂嵐がくるかなどといった予言も何度がしたという。
  マホメットは、少年時代に隊商についてあちこち旅をしていたが、25歳の時に、一人のお金持ちの未亡人と結婚してから、財産をもち、それ以後は、旅に出る必要はなくなり、ひたすらシーラ山の洞窟にこもって瞑想の日々を過ごした。その後、15年もの長い修行の末、ついに神の天啓を得たのである。西暦610年、マホメットが40歳の時の出来事であった。マホメットのこうした修行の話は、マホメットが気功の静座や意識の集中などといったある種の気功的な修行をしていたことを伺わせられる。
  イスラム教の聖典であるコーランは、マホメットの話を口述したものであるが、マホメットは、コーランを口述する前にまず黙り、顔が真っ赤に染まりながら大粒の汗を流し、鼻を鳴らし、その後に忘我状態になり、神の啓示を下したという。
 こうした現象は、気功や内功をおこなった際に、よく現れる身体の変化に近く、マホメットがある種の気功をおこなってから天啓を下していたと指摘する気功研究家もいる。他にも、マホメットは気功もしくは武術の達人ではないかというエピソードがいくつもある。

 イスラム教には、シーア派とスンニー派の二大分派があるが、スーフィーやハワーリクなどといった小さい派もある。特にスーフィー派は神秘色が濃い派として知られ、中国の回族における虎夫耶派(フフヤ派)や哲赫林耶派(ジョフリンヤ派)などは、スーフィー派の支派である。これらは仏教やキリスト教などの影響を受けたりして、より深く神秘的な色彩になっていったという。
 虎夫耶派は3つの修道上の段階があって、一番位が高いのはムラーシッドという。その次はハリファーで、一番下が一般の信徒である。このうち本格的に修行を受けれるのはハリファーまでだそうだ。最高位ムラーシッドは特殊の能力を持っている先生であり、ハリファーに少人数で特殊な教授をほどこすらしい。こうした厳密な教授を経てから、ハリファーは特殊な能力を得て、新しいムラーシッドとなっていくそうである。
 哲赫林耶派は反対に開けた場所で声高らかにジグルを唱えていき、やがて忘我状態へと変って身体を震わせたり、舞ったりするそうである。また哲赫林耶派の聖典には、気功でいう外気発射治療によって病人を治したとある記述が多く見られる点である。この力は気功によって獲得した能力だと指摘されている。
話が横に逸れたかんがあるが、中国の回族の気功法は、すべてこうした神秘的修養法を持つ派から発達したとされている。回族の武術は八極拳や心意六合拳といった一打必倒の拳法が多いことで有名である。
 また回族の硬気功に対する造詣が非常に深いのである。心意排打功の李青山(浙江省)をはじめ回族から多くの硬気功家が輩出しているのだ。
 これらの気功と一打必倒の武術はまったく関係ないとはいえないかと思う。こうした関係を今後研究家たちの深い研究を望まれる。インド僧である達磨が仏教の教えを普及するために、中国へ赴いた際に、武術や易筋経などといった気功法も伝えたという逸話がある。イスラム教がこうして中国に入ってから約1000年もの長い年月が経っており、その間文化の往来がひんぱんであり、中央アジアに伝わっていた武術(気功)も一緒に伝わってきたことは不思議なことではない。

 イスラム教の祝日である開斉節、グルバン節、聖紀節には必ずといっていいほど、清真寺で武術大会がおこなわれていたのである。
  さきほど説明したとおり、回族の間で武術が盛んにおこなわれていたのは、中国の封建時代の統治者たちが、少数民族を差別し、圧迫したことによると思われる。
  反骨精神があって勇敢な民族である回族は、元、明、清の各王朝において、圧政に反抗し起ちあがっているのは、よく中国史に見られる。よって清王朝は回族の武勇を恐れ、3人以上の回族が武器を所持して集まることを禁止したほどなのだ。回族の人が罪を犯したら、犯した者の額に「回賊」の二字を入墨にした。 しかし回族の人々はこのような圧制を恐れず、つねに武術を練習し、現在に至るまですぐれた武術家を多く輩出させてきている。
  回族に起源があり、また主に回族の居住地において回族の人たちの間で継承されてきた武術は多くあり、中国武術に大きな影響を与えてきた。元王朝末期にのちの明太祖である朱元璋が元王朝に反乱を起こした時に、朱元璋の部下として活躍した回族の常遇春が伝えたとされる開平槍法や、そして馬家槍、沙家槍など他にも多くの武術がある。

 回族の居住地は武術やシュアイジャオ(柔道に似た投げを得意とした武術)の名で知られる地が多い。
有名な所といえば、河北省滄州孟村回族自治県(八極拳、劈掛拳)、河北省保定(シュアイジャオで非常に有名)、山東省濟南(シュアイジャオ)、山東省冠拳’査拳)、北京牛街(シュアイジャオ、通臂拳)、その他に河南省開封や河南省洛陽、河南省周口、西安、蘭州、広州光塔路など数えたらきりがない。

長拳系で代表的な拳術である査拳は西域の回教徒である査密爾(チャミール)から伝えられてきたとの伝説があり、山東省冠県や河北省滄州、河南省開封などの回族居住地に伝承があった。
 ロシアのレスラーを倒したりして武勇のエピソードの多く、近年の「大力千斤王」の名で有名な王子平は回族であり、山東省のアホンであった楊洪修から査拳を学んだ。
 また中国武術最高段位九段である張文広は河南省の回族武術家・常振芳から査拳を学んだのである。
 北派拳術で多く練習されている弾腿は「教門弾腿」とも呼ばれるが、「教門」とは「回教門」という意味であり、この拳術の拳歌に「南京から北京に到る弾腿は教門(回教門)より出る」とあるぐらい有名なのである。
 西北の甘粛、青海などの地域に伝わっている八門拳は河北出身の回族武術家・常燕山が多くの拳術や棍術を学んだあとに西北に移住し、多くの門弟に伝えたのを経て、八門拳が形成されたのである。
 さらに、形意拳と起源を同じとする心意六合拳も清代より主に河南の回族の間で伝承があった拳法である。形意拳及び心意拳を創始したといわれている姫際可から心意拳を学んだ曹継武は回族である馬学礼に心意六合拳を伝えたことにより河南の回族の間で伝わってきたのである。その中で特に河南省の周口の回族居住地区からは多くの名人を輩出しており、心意六合拳中興の祖といわれる盧崇高をはじめ、尚学礼、楊殿卿、李青山などといった名人が出ている。
また、一打必倒あるいは発勁強猛で知られる八極拳も回族の呉鐘から代々河北省滄州孟村の回族居住地区に伝えられてきたものであり、呉鐘の子孫である呉連枝氏はたびたび日本に来られて指導されている。
 その八極拳を伝える呉家と親戚であった楊石橋の馬鳳図は幼少の頃より親戚から八極拳を学び、それから黄林彪から学んだ劈掛拳を加え、さらに東北で現地の武術家たちと交流して学んだ翻子拳や戳脚などをも加えて「通備拳」として発展させたのである。
 南京中央国術館の館長の張之江と馬鳳図は共に滄州の出身であり、さらに共に西北軍の領主である馮玉祥の部下であったことにより、 馬鳳図も南京中央国術館の創立にあたって発起人の重要なメンバーの一人であったが、当時は馮玉祥が率いる西北軍の重鎮として西北の甘粛省に移住していたため、馬鳳図は弟である馬英図を参加させたのである。馬英図は1928年に南京中央国術館での「第一回全国国術考試」の散打部門と撃剣部門、長兵器部門(槍)において優勝したことにより、南京中央国術館の教師となり、その後第二科科長に着任した。馬英図は多くの武勇のエピソードがあり、全国から多くの武術家が出入りした南京中央国術館の教師の中で自他共に実力NO1と見なされていた。
 馬鳳図が完成した通備拳は4人の息子(馬穎達、馬賢達、馬令達、馬明達)へと受け継がれている。
 前記の馬英図の他にも、馬鳳図の次男である馬賢達氏は1952年大学生の身ながら全国規模の散打大会と短兵大会において優勝され、さらに翌年、全国の各地区のチャンピオンが集められて開催された短兵格闘試合においても不敗の記録で優勝を果たされた。また、国手として黒人ボクサーやロシアの格闘家とも試合し圧倒した。中国は土地が広大であり、今までどんな名人、達人であろうと周りの地域においては無敵であったケースが多かったが、全国から武術家が集まってきた散打大会の中で馬家から2人もチャンピオンが出たのは異例中の異例なできごとである。

 以上の他に、回族の間で、回回十八肘、湯瓶七式などの秘拳や阿里棍、蘇勒剣、古蘭剣などの武術が伝えられていたのである。

 また、回族の間には、牛を倒す(素手で)伝統競技がある。シュアイジャオ(柔道に似た投げを得意とした武術)も盛んであり。これらは回族の居住地において練習されていた。
ちなみに南京中央国術館の第二次国術考試のシュアイジャオ部門においては、常東昇、張登魁、沈三、張文広(軽量級)などこれらの上位は回族で占められている。
常東昇はのちに台湾へわたり、アメリカなど国外でもその強さにより、勇名を馳せた。

 また、競技性武術であるが、趙長軍は回族であり、1980年代李連傑(ジェット・リー)のあとに表演武術の王者として君臨した。その後現在西安市内で武術館を開設し選手育成に努めている。






現在の拳豪・馬賢達氏の近影  《中国短兵》馬賢達著より   1953年全国短兵格闘試合に兄弟揃って参加した馬穎達
武術の名門の馬家は回族の世襲制の武芸を伝える家系である  (右 白服)、馬賢達(左 黒服)兄弟  弟・賢達氏より短
                                       兵を学んだ穎達氏は通備剣技、通備刀法の基礎があって
                                      か短期間の学習だけで西北の短兵大会で優勝され全国
                                       大会に参加した。回族の兄弟が参加したこの全国大会は
                                    当時の武林界に大センセーションを巻き起こすニュース
                                    となった。そして西北代表と華北代表として覇を争う






心意排打功で有名な李青山氏(80歳の頃) 《周口日報》より
硬気功で鍛えられた強健な身体はアメリカの空手チャンピオンの挑戦を退けた。




李青山 (1910〜2004)

 今回紹介した李青山氏は、原籍は河南省周口市であり、少年時代から武術に興味を持ち、父と兄から拳術、西域鞭、十三槍などを学んでいたが、のちに師について心意六合拳と硬気功を学び、同時に医学も学んだ。また査拳などの武術も精通している。
 李青山氏は清代の武術家・張鳳鳴が練習で使っていた八十キロの大刀を自由自在に振り回して操ったことにより、武術界から「大刀王」との称号を与えられている。
 1950年代に、李氏の硬気功の表演は見物人を圧倒させ驚嘆させたことにより、多くの人から絶賛された。人々が必死になって粉ひき場から持って来た大きなローラーを彼の腹にのせ、そのローラーの上にさらに大男がのって立ち、続いて頑丈そうな4人の若者が上にのり、ローラーの四方に立った。なんとその時に重量は計650キロも達していたが、平気だったという。
 1985年、李氏は西安で開催された国際武術邀請競技大会に参加し、45キロの大刀を振り回し、そして心意排打功も演武した。
 演武が終わると、アメリカの空手チャンピオンが挑戦してきた。このアメリカ人は通訳を介して正拳で李氏を何度か突いてみたいというのだ。李氏は中国人の対面を失わないために、このアメリカ人の相手をするのを承知した。アメリカ人は満身の力を込めて鉄拳を李氏の体を突いたが、李氏はまったくダメージを受けずに、どっしりと動かず。それを見ていた会場の人々から喝采を浴びたのであった。しかし対面を失ったこのアメリカの空手チャンピオンは諦めずに、今度は頭突きで李氏の腹を突くと言い出すのであった。李氏はやらせることにした。今度はこのアメリカのチャンピオンは3メートルぐらい離れ、猛牛のように必死に加速して突っ込んできて当たったが、三回とも李氏を倒すことができなかったのだ。最後はこのアメリカの空手チャンピオンは首を痛めてしまって李氏を倒すことができなかった。会場の人々はそれを聞き、会場中に大きな拍手が鳴り響いたのであった。
 李氏の技芸こそ中国国術界にあって抜きんでた存在である。そして1995年に、李氏は中国武林百傑の称号を得る。
 2004年夏惜しくも他界された。


見よ!これが神技の心意排打功だ。年齢の衰えを感じさせない高い功夫である。


河南省周口で回族の間で伝承があった心意六合拳。
80歳は過ぎているのに、これだけの架式ができて動けるのは凄い功夫である。







中国国内だけでなく海外にも勇名を馳せた近年の(シュアイジャオ)の達人、常東昇。
その強さは生涯にわたって心血を注いでシュアイジャオの修行と研究によるものである。
写真左は1983年アメリカで撮ったもの。右はアメリカの格闘雑誌BLACKBELTにて紹介された時のもの。


シュアイジャオ大王 常東昇 (1910〜1986)

    

 シュアイジャオ(才率 角)大王として中国国内及び広く海外まで知られている常東昇は、1910年生まれであり、河北省保定の出身。
シュアイジャオを伝える家系で生まれた常東昇は父・常蘭亭の厳しい指導の下、シュアイジャオの基礎を練習して厳格な身体訓練を受けた。
常東昇が生まれ育った河北省保定はシュアイジャオの最も盛んな地域として有名であり、多くのシュアイジャオの達人を輩出してきている。
 12歳の時、シュアイジャオの各種基本動作を修得した常東昇は、シュアイジャオの高手で有名な張鳳岩に拝師して門下に入り、張鳳岩の指導を受け訓練を重ねた。
16歳にはすでに保定で一目を置かれるようになり少年英雄と注目されるようになった。
 常東昇は他に兄弟がおり、他の兄弟もシュアイジャオに精通していた。長男の東如、そして次男の東昇、三男の東坡、四男お東起、後に「常家四虎」と称されるようになった。その中でも次男の常東昇の実力が最も優れており、最高の境地に達していた。
 それから、1928年2月に保定北郷曹河鎮において挙行されたシュアイジャオ対抗試合に参加し、「黒塔」と称されていた現地の名手、王世文を倒し、続いての対戦相手・楊得山と劉慶も常東昇のシュアイジャオの絶技によって投げ倒された。この曹河鎮での試合の勝利により、常東昇の名声は高まっていった。
 師、張鳳岩は常東昇のことを気に入り、試合において万全に準備をさせた。また常東昇も師の教えを忠実に守り、さらに努力を重ね練功を励んだ。朝6時に城外にある空地において各種の補助器材を使った練習と才率、跌の動作の反復練習をおこない、昼間には師の家の庭で師兄弟と一緒に練習を励んだ。夜には家でも練習をおこない、たまに師による示範動作の講義を受けた。
また、シャイジャオの訓練以外、張鳳岩は常東昇を自身が経営している醤油店の中へ連れて行き、人間一人分の大きさの箱を腰背と腹筋の力で抱え上げさせる訓練などもさせた。これらの訓練はシュアイジャオを練習する場所以外での訓練方法である。常東昇は師の教えに従い、不断に続けていった。
師、張鳳岩は聡明で勤勉な常東昇のことを目にかけ、時には単独で要訣を伝授し、また張が試合で経験したことについても語った。
いつの間にか張鳳岩は常東昇こそシュアイジャオの絶技を習得できる人物だと思うようになった。そして張の次女を常東昇の嫁にした。こうして張鳳岩と常東昇は親類となった。そして常東昇は張鳳岩から張氏保定シュアイジャオ法の全伝を受け継いだのである。
この師弟の逸話は中国シュアイジャオ史上とても有名な語り草となっている。
 常東昇は保定シュアイジャオから輩出した屈指の代表人物であり、技術全面だけでなく、人格もすぐれていた中国式シュアイジャオの超級武術家である。
 張鳳岩は実際の試合をしながら訓練を重ねるのを重視しており、よく弟子を連れて華北の大地を周り腕比べをしていた。中でも蒙古草原はシュアイジャオがとても盛んな地であり、何度か蒙古のシュアイジャオの高手と試合をしたりした、その時でも常東昇は保定シュアイジャオの技芸の特徴を十分発揮して勝利を収めた。
そして百回以上の試合で、常東昇は不敗をほこり、若年で「常勝将軍」または、「シュアイジャオ王」と称されるようになった。また、その快速で精妙な技術は「花蝴蝶」と称された。
 若くして英雄と見られるようになった常東昇は天下に名声を広め、1932年馬良の推薦により、たったの22歳の若さで南京中央国術館のシュアイジャオ教師として出任した。 常東昇は中央国術館において5年教鞭を執っている間に、多くの人材を育てただけでなく、伝統訓練方法から、多くの訓練方法や競技方法を編み出して伝えていった。こうして国術の発展に貢献したのである。
 日本との戦争の間、常東昇は第七、第八師と第四、第五路軍の中校体育教官となり、そして陸軍軍官学校中校体育教官、傘兵総隊上校体育教官の職にも就き、積極的にシュアイジャオの普及にも努めた。
 戦時中当時、日本柔道家が中国武術家に公に挑戦してきた。常東昇はそのことを聞くと、挑戦に応じ、中国シュアイジャオの絶技と愛国心をもって北義熊、道正夫といった2人の柔道家を投げ飛ばした。常東昇のあまりの強さにその場にいた他の柔道家たちは慌てて常東昇と戦おうとせず、常東昇の実力に降参したのであった。この出来事は戦時中非常に有名な出来事して知られている。
 常東昇は旧中国において多くの全運動会のシュアイジャオ大会で優勝を果たしている。その中でも、1933年南京で挙行された五運会において、シュアイジャオはとても人気がある種目であり、数百人もの参加応募者が出たのである。その中で常東昇は楽々と優勝(中量級)を果たしたのである。
 また、1948年5月上海でおこなわれた第七運会において、陸軍の代表で参加し丙級部門で優勝した。
その時弟の常東起も参加しており、中乙級部門で優勝した。
 1949年常東昇は台湾に移り住み、後に警界において仕事をした。台湾に移り住んでも、常東昇はどこの場所でも熱心にシュアイジャオを指導し、警官学校、台北大学、政治大学、文化大学、建国中学などの学校で国術教師を兼任した。風雨にも関係なく熱心にシュアイジャオを指導したことにより、万単位まで学習者が増えたのである。
 1975年退職した後、積極的に中国式シュアイジャオの普及と発展に努め、世界各地まで赴いてシュアイジャオの指導に心血を注いだ。その前後に、香港、シンガポール、ドイツ、スイス、メキシコ、アメリカなどの国でシュアイジャオの演武をし好評を博した。こうして世界各地においても名声を広めたのである。
 1975年モロッコ国王の要請により、モロッコまで赴き、シュアイジャオの演武をした。その時65歳になってた常東昇はモロッコ国王の親衛隊の精鋭と試合することとなる。この猛者は空手と柔道の高手であったが、常東昇の相手ではなく、簡単に引っくり返され投げ飛ばされたという。
 1983年常東昇はアメリカで開催された中国功夫表演大会に招待され、多くの華僑とアメリカの観衆の前で太極拳とシュアイジャオの技法を表演した。
この大会の表演は大変な好評となった。中国式シュアイジャオの発展を促進するため、常東昇の学生がアメリカで世界中国シュアイジャオ協会を設立した。
その時常東昇は名誉会長となり、この世界中国シュアイジャオ協会はアメリカの東、西、南、中部と分会ができるまでとなった。それからもドイツ、スペイン、イタリア、などの国でも中国シュアイジャオ協会が設立し、多くの人がシュアイジャオを練習している。
これは常東昇の生涯にわたって心血を注いでシュアイジャオの研究、そして普及してきた結果である。
 中国国内だけでなく、海外までその強さを実際に証明した常東昇はまさに、真の中国武術の達人といっていいだろう。

常東昇老師の孫にあたる常達偉氏は台北で常氏シュアイジャオを指導されています。●常達偉氏のホームページ<ここをクリック>





「千斤王」王子平 (1881〜1973)

 王子平は、「武術の郷」で有名な河北省滄州の出身。幼い頃から武術の練習に精を出し、朝は未だ星が見える夜空のうちから、夜は人々が寝静まった頃まで練功を怠ることがなかった。
よって、16歳の時にはすでに査拳、滑拳、洪拳、弾腿、炮拳、八極拳及び各種武器に至るまで精通し、深い功夫があった。
 後に義和団に参加して清朝から「拳匪」として追われることとなり、済南の清真寺に身を潜めて、アラビア語などの学習や武術の修行に明け暮れた。
清真寺に身を潜めていた頃のある日、東門外の柳園茶室にあった「水推磨」という水力で回転する仕掛けとなっている大きな石の臼を片手で止めたことにより、人々から「千斤王」と称されることとなった。
 後に上海に出てロシアのレスラーを倒し名を上げた。数々の武勇伝が多い武術家である。







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