中国武術簡易人名辞典

文/中国武術WEB編集部 参考資料:中国武術大辞典 




   


姫 際可(1602〜1680)

山西蒲州の出身。形意拳(心意拳)の創始者といわれている。
幼少の時から、武術と学問を学び。義勇抜きんでいた。
特に大槍術に精通していて、「神槍」と称されていた。
実戦上での徒手での自衛の適応のため、槍理をもって拳理とし、動物が戦うのをヒントとし、また終南山に訪れた際に南宋の名将・岳飛が著した書物「六合拳経」をヒントとし、苦心研究した後に、六合の拳理をもって法となし、完成し編み出したのが形意拳(心意六合拳)である。
芸なった後、各地を遊歴し、完成した拳の伝承に努めた。そして曹継武と出会い、曹継武に教え全伝を授けた後、故郷へ戻った。
曹継武の伝は河南の馬学礼(回族)と山西の戴龍邦に受け継がれ、後に河南系(心意六合拳)と山西系(戴氏心意拳→形意拳)にわかれ、それぞれ独自の進化をとげた。

王 朗(?〜?)

山東即墨の出身。蟷螂拳の創始者。
伝説によれば、明末から清初期の人だといわれている。
幼い時から武術をはじめ、明滅亡後、崇山少林寺に逃れ、拳術と棍術を学び、「反清復明」の志を持っていた。それから後、軍兵が少林寺を派兵してきたため、同士とともに少林寺を脱出、峨眉山などに逃れ、後に山東の寺院に逃れる。その時、蟷螂が蝉を捕らえるところをヒントとし、蟷螂の双手を動き、進退の特徴の動きを拳法に取り入れ、また少林拳術の精華と猿猴の歩法も取り入れて、苦心の研究の結果、蟷螂拳を編み出したのである。

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呉 鐘(1662〜?)

回族。河北省慶雲県の出身。
その後同省の滄州孟村に移住する。開門八極拳の創始者である。
幼少から武術を学んでいた呉鐘は勇猛であり、聡明な人であった。成年になった時には、武勇の名声は慶雲県一帯に広まっていた。門弟千人を有する裕福な生活をしていた。
ある日、一人の老人夫婦が慶雲県を訪れた時、呉が門弟に教えているところに通りかかった。その時、呉は門弟に一百零八槍を教えていた。呉の教え方が大変傲慢だったので、その老人夫婦の主人が「その技は本当に実用に役立つのか」と呉に尋ねた。
呉は腹を立て、その老人と試合したが、その老人は一突きで呉を突き倒した。呉はこの老人は只者ではないと悟り、すぐさま跪いて、その老人に「この槍術はなんというものなんでしょうか?」と尋ねたが、その老人は「一槍」と答えたのみ、連れ添っていた老婆と一緒に去ろうとすると、深く反省した呉は進み出て跪き懇願して、弟子となった。
そして老人夫婦を自らの家に迎え入れ、その老人を父のように崇めた。そして今まで教えていた門弟たちを解散させ家に戻した呉は一心不乱にその老人について学び、ついにその老人から開門八極拳と六合大槍の真伝の伝授を受けた。
呉はその老人夫婦が亡くなるまで誠心誠意を尽くしたという。呉は漢族の習慣に改め、老人夫婦を呉家の祖先代々の墓がある場所に埋葬し、漢族の習慣である仏式にのっとり法要をおこなっていたという。
これは美談として、今でもなお慶雲県、滄州一帯に語り伝えられている。
呉鐘に槍術と拳術を教えた老人は河南焦作の人である張岳山であるから、"岳山八極”とも呼ばれている。 また「滄県志」からによると、呉鐘に拳術と槍術を伝授したのは某姓という道士ともいわれている。他にも他説があるので、これから研究が必要である。
功なった後、呉鐘は諸国を歴遊し、杭州で少林僧と試合して破ったり、北京では康煕帝の十一子を殳の試合で破ったという。
呉鐘は娘の呉栄に武術を伝え、呉栄は多くの人に伝え、その門弟の中には羅瞳住人の漢族の王四にも伝え、その王四は張同文と李大中に伝えた。よって八極拳は孟村の呉姓の人以外にも、羅瞳も多くの人材を輩出したのである。
呉鐘が伝えた八極拳と大槍術は孟村と羅瞳から中国国内外まで伝わったのである。

楊 露禅(1799〜1872)

河北省永年の出身。楊式太極拳の創始者である。
河南省温県の陳家溝まで赴き、陳長興(陳氏第14世)から太極拳を学んだ。その頃の太極拳は陳家以外の人間は習えない秘伝の拳法であったが、楊露禅が、毎夜陳一族の練習をのぞき見をし、一人で密かに工夫していたところそれを知った陳長興にその熱意を認められ、正式に学ぶことができたのである。
十数年の修行の後、楊露禅は陳家に伝わる太極拳を会得して、故郷の河北省永年県に帰った。
その後独自の工夫を凝らし、後に北京に行き広めた。北京では他の武術家と競って破れたことが無く、楊無敵と呼ばれた。
19世紀始め、宮廷お抱えの武術指南となり太極拳を中国全土に広げることとなる。

李 洛能(1808〜1890)

河北省深州の出身。
幼少から花拳を練習していた。全国の名師を訪ね教えを受けていたという。中年の時には武術に精通していた。
ある日、山西祁県に戴氏心意拳があるとの噂を耳にし、山西祁県へ行き、戴龍邦から心意拳を学ぶ。この時の李洛能は37歳であった。十年の苦練を経て、大成する。
李洛能は戴龍邦から心意拳を学んで深く拳法理論を身につけ、「神拳」と称された。その後、自分の故郷の河北省深県に戻って、当地に伝え広めて、正式に形意拳を創設した。
李洛能の代になって、三体式(さんたいしき)と呼ばれる形意拳の基本の姿勢が考案され、現在の形意拳に至っている。
有名な弟子は、車毅斎、宋世栄、劉奇蘭、郭雲深など。

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李 鳳崗(?〜?)

生歿年不明。回族。河北省滄州の出身。
六合拳を伝える家柄の出身であり、特に双刀に長じていた。「双刀李鳳崗」と称され、滄州、塩山などの一帯の地域にその名声を轟かした。
「大刀王五」の師として知られている。
李鳳崗の刀法は清代において、滄州、塩山などの一帯の地域では群を抜いており、また李鳳崗の叔父・李冠銘の功夫は更に驚嘆するものであり、滄州に通った金票局(旅客を守るボディーガード、腕のある武術家が仕事をしていた)を何度も打ち倒したことにより、滄州ではその後金票局が滄州で叫ばなかったのである。
古くからそして現在まで武術界では滄州は「保 金票(ホヒョウ)」は滄州に到りては喊ばず」と武術家の間ではこういう言い伝えがあるが、李鳳崗の叔父・李冠銘の代から始まったのである。

李 雲標(1812〜1868)

河北省塩山県孟店の出身。
幼少の頃から勇敢であり、師について武術を学ぼうと志したが、家が貧しくなかなか学べる機会がなかった。しかし志を捨てず、年齢が長じてから南皮県、呉橋県へ師に教えを請いに行き、唐拳、シュアイジャオ(柔道に似た投げを得意とする流派)及び武器を練習していた。
その後に、潘文学について劈掛拳、刀法、槍法、棍法などを学ぶこととなる。
師・潘文学は官方の身分であり、「親李学派」の思想を説きながら文武兼習を提唱していて、滄州、塩山これらの県民に武術を指導しながら義を重視させるよう説いた。
一時、潘の所で武術を学んでいた門下生は多く、その中で李雲標と大王鋪出身の肖和成の2人は師・潘から最も深く信頼され、その功力は傑出していた。
李と肖の2人は潘文学から最も多くのものを受け継いだのである。
また、李雲標は八極拳、太祖拳などの武芸も兼習して習得し、師・潘が唱えた「通備」の教えに従い、即ち劈掛+八極の『長いものによって短いものを補うことにより、さらに良いものにする、剛と柔を備え、今まで風格や技法が別種だった各種のものを共通の原理により貫いて完成させる」の理論に基づいて融合し体現させた。
李雲標は体格がよく、勇猛であり、その動きは進退自在であり、その鍛え上げられた双臂(腕)による強打は比武で多くの相手を一撃で打ち倒した。
まさに李雲標こそが劈掛拳と八極拳を兼習して実際に実戦で証明してきた先窟者である。
よって、「塩山新志」第16巻では李のことを「鉄臂燕子」と紹介している。
李雲標は平素大槍を好んで練習しており、師の潘文学からよく受け継いでいる。
その当時の滄州一帯の地域は武風の盛んの地であり、多くの大槍の名人、達人を輩出していたが、李雲標の槍術の功夫の深さは羅瞳の八極拳家である李大中、張同文、そして南皮の周長春といったこれら大槍の名人、達人さえも舌を巻いたという。
李雲標は潘文学の下で武術の修行を終えた後、商いをしながら京津(北京、天津といった地域)などを歴遊し、その間武術名家を訪ねながら、師・潘の下で苦心した後に習得した己の武術とこれらの名家の武術の良いところを比較してみたりして研究していった。
後に北京において名声を上げ、緑営総合教師となる。
1866年に故郷・滄州へ帰ることとなる。
その2年後、1868年李雲標は農民義勇軍を率いて捻軍の役の戦争に参加し戦死する。
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董 海川(1813〜1882)

河北省文安県の出身。八卦掌の創始者として知られる。
幼い時か ら武術を好み、各派の拳法や武器法を学び、性質は豪快で任侠心に富み、義を重んじた。良師を求め、南北各地を遊歴していた。
そんな遊歴の間に、安徽省九華山に行った時、道人と出会ったという。董海川は道人につ いて八年間武術を習った。
のちに北京に出て、粛親王に見出され、粛王府につかえて粛親王はじめ王府の人々 に八卦掌を教え、かつ警護の役についた。
六品の位を授けられたといい、武名が高く慕っ て入門する者が多く、有名な弟子は尹福、程廷華、梁振圃、馬維斯、劉鳳春など。

郭 雲深(1820〜1901)

河北省深州の出身。
"半歩崩拳あまねく天下を打つ"といわれ、半歩すすんで崩拳を打ち込むだけですべて勝利を収めたといわれる形意拳の達人として知られる。
体は小柄であったが、気性は激しく、武術を好み、幼少の時は少林拳を学ぶ。
その後「神拳」と称された李洛能から形意拳を学ぶ。12年の修業の後、功成り、最も崩拳を得意としていた。
後年、郭雲深は匪賊をこらしめ、また拳銃を構えていた首領を剣で突き殺したため、罪に問われ牢獄に3年もの間つながれていた。獄中の中で手かせにつながれても半歩崩拳を苦心しながらも練習を重ね、より技を磨き精妙になっていった。出獄後、南北各地をまわり、多くの試合をして勝利を収める。
自分の功夫を試すために、5名の力持ちの男に棍棒を持たせ自分の腹に当てさせて郭が腹に気合を入れると、5名の力持ちの男が吹っ飛んでいったという。
また、北京で八卦掌の董海川と楊式太極拳の楊露禅と試合をし引き分けた。
有名な弟子は、李奎元、銭研堂、李存義、孫禄堂、王向斎など。

王 正誼(1844〜1900)

回族。河北省滄州の出身。
ご存知!武林小説「大刀王五」とはこの人である。
「大刀王五」とは大刀を得意とし、兄弟弟子から排列して5番目に当たるから「王五」と称されたのである。
また、義侠心があり、長く京城(北京)に長くいたことから「京師大侠」とも称された。
生まれた家庭は貧しく、12歳で餅を焼いて売る商いをしていた。初めは通備劈掛門の肖和成について武術を学んだ。その後、「双刀」で有名な李鳳崗から六合拳などを学ぶ。また山西の董という師から単刀も学んでいる。
功成った後に、天津や北京などの一帯の地域に活動していた。
幼い頃から人並み以上に体力があり、剣術に長じ、河北、山東といった地域から集まった若い武術家たちからリーダー格とされ、依頼により、金票局(ボディーガード職の警備会社)を開設し、旅客を助けた。
また、京都香廠という学校を作り、人々に学問と武術を教えるためで、有名な儒者に請うて学校で歴史を講義してもらい、王自身は武術を学生たちに教えたのであった。
1898年、譚嗣同ら「六君子」が維新を主張していたが、支援を頼んでいた袁世凱将軍に裏切られ、袁将軍が西太后に密告したために逮捕されてしまう。譚たちは西太后によって惨殺され、維新の変法を支持した光緒帝も瀛台に幽閉されてしまったのである。譚嗣同は王正誼の武術の弟子であり、同じ志を持ち師弟以上に肝胆相照らす仲であった。譚嗣同らが西太后によって斬罪に処せられようとした時、王正誼は刑場に乗り込もうとしたが、清廷の警備が厳重で手の出しようがなく生涯の心残りであった。
1900年6月にに起こった義和団の乱の際に、八ヶ国連合軍が北京城を攻め落とした。当時すでに無能になっていた清朝政府は抵抗もせず、西太后や光緒帝らは慌てて北京から逃げたという。政府に見捨てられた北京市内は侵略者の手によってやりたい放題されていたのであった。民衆にまで危害を加えたことに王正誼は憤慨し、勇敢にも連合軍に立ち向かったが、ドイツ兵の一斉射撃によって射殺されたという。

李 存義(1847〜1921)

河北省深県の出身。
子供の頃は家が貧しく、車引きで生計を立てていた。大きくなってから、長拳、短拳等の武術を学ぶ。
中年になってから劉奇蘭に形意拳を学ぶ。
後に北京に赴き、董海川の弟子である程廷華と劉鳳春などと知り合いになり、董海川の許可を得て程廷華から八卦掌の教えを受けたこともある。
1900年に義和団事件が発生した。その時、李存義は単刀を持って参加して著しい活躍をした。
李存義は長年保金票の仕事をし、各省を往来する。旅の途中盗賊に襲われた時は、手に単刀を持って勇猛に戦い撃退したのであった。その勇猛な戦いぶりから「単刀・李」と称された。それから強盗たちは李存義が商隊を護衛していることを知ると、襲撃を諦めたという。
民国初年に天津で中華武士会の創設に貢献し、多くの門弟を育てた。
また、上海の精武体育会、南洋公学(現・交通大学)などでも拳を教えた。
有名な弟子は、黄柏年、赤β恩光、尚雲詳、周玉祥、王俊臣、孫禄堂など。

黄 飛鴻(1847〜1925)

広東省仏山の出身。ご存知!武林映画に出ている黄飛鴻その人である。原籍は同省南海県西樵嶺西禄舟村であり、原名は黄錫祥。
父の黄麒英は広東十虎≠フ一人に数えられるほどの武術の達人である。6歳の頃から父親と各地を回り、武術を見せて家計を助けた。13歳の時、鐵橋三の高弟である林福成の弟子になり、2年間鐵綫拳や飛鉈を学ぶ。
黄飛鴻の得意技「無影脚」は“影が出来ないほど早い蹴り”と言われるくらいであった。
16歳になると、飛鴻は広州に移り、第七甫で武術を教え始める。20歳の時、中国人を小馬鹿にしたイギリス人主催の猛犬との戦いで猛犬を蹴り殺し勇名を馳せる。
26歳の時には水夫たちに武術を教える。またその時、広州警察のリーダーに選ばれる。
後に仁安街に移ると、病卒した父の『寶芝林』を受け継ぎ、新たに武館を設けて多くの門弟を集め、一流の武術家として名を知られるようになった。その名声を聞いた呉全美提督や劉永福将軍らに招聘され、兵士たちの教練を任された。
1894年に日清戦争が始まると、劉将軍に随行して台湾に赴き、台南で防備に当たったが、翌年の6月に黄飛鴻は広州に戻った。
1919年広東精武会設立大会に、得意の飛鉈を表演し、注目を集める。
1924年、広州で商団の乱が発生し、各地で火災が起こり、『寶芝林』も炎上したのであった。更に長男の漢林が失業したという知らせを聞いて病になり、翌年の1925年3月に城西方便医院で病没した。享年77歳。
有名な弟子は林世栄など。

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孫 禄堂(1961〜1933)

河北省完県の出身。
幼いころより李魁元に形意拳を学び、後に李魁元の師である名人の郭雲深に形意拳を、それから北京に出て程延華に八卦掌を伝授を受ける。
50代には赤β為真に武式太極拳(赤β式太極拳)を学ぶ。
孫禄堂は小柄で敏捷なことから「活猴」と呼ばれた。
晩年に至り形意拳・八卦掌・太極拳をまとめた孫式太極拳を編纂する。
1928年、南京中央国術館武当門門長として招聘される。のち江蘇省国術館副館長兼教務長に就任する。
また理論研究にも卓越し、「拳意述真」、「形意拳学」、「八卦拳学」など多くの著書を記す。
有名な弟子には、孫存周 (二男)、孫剣雲(長女)、 胡鳳山、 孫振川、 孫振岱、 斎徳厚など。

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張 策(約1864〜1934)

河北省香河の出身。「酔鬼・張三」の異名をもった武術家である。
幼少の時から武術を始め、最初は張大相から少林拳を習う。そして楊式太極拳を学ぶ。
その後、韓和尚(一説では陳慶)から通臂拳を学ぶ。
刀法が最も精通しており、"鉄靴"をよく履くことから「鉄靴張策」と称された。また軽身功も得意とし、気合一つで高い壁の上へ飛び上がったという。
北京国術社で指導しており、門弟は多かった。河北、天津など地区においても教えており、大連、瀋陽に行って指導したことがある。

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李 書文(1864〜1934)

河北省滄州南良村の出身。
幼少より武術を好み、最初は金氏から八極拳を学んでいた。
それから黄四海より八極拳を学ぶ。そして羅瞳八極拳の代表人物の張景星からも指導を受け、大きな進歩となる。
160センチぐらいの小柄の人であったが、猛練習により、これを克服。
李書文は農家の出身であり、李の家がある南良村から羅瞳まで18里もある道を大槍の練習をしながら通っていたという。それを見た村人から「瘋子(変わり者)」と言われていたが、李書文は休まずに槍を持ちながら休まずに12年間も通っていたという。
不断に続けた努力の結果、百発百中の腕となった。壁に止まっていた蝿をめがけて、李書文が槍で矢継ぎ早に繰り出すと、槍の突きに応じて蝿が落ちていったが、槍先で壁に一つも傷がなかったという。
後に張景星の紹介により、黄林彪から劈掛拳を学ぶ。功なった後に、天津、北京に武者修行に出て、名を上げる。
壮年期から晩年期においては、許蘭州、李景林などの軍閥に請われて武術指導をし、多くの弟子を育てる。
また、馬鳳図が副会長になっていた天津の「中華武士会」にも参加した。
李書文は多くの弟子をとったが、教授方法は厳しく、槍法の主要な技術は一般人には伝えなかったという。
有名な弟子は、後に皇帝溥儀のボディーガードを務めた霍殿閣、崔長友、張徳忠、孟顕忠など。
晩年弟子劉雲樵は台湾で蒋介石のボディーガードに八極拳を指導した。
他流試合は数知れず、特に八極拳と六合大槍に優れており、他流試合で多くの武術家を破っており、その傑出した大槍の功夫から「神槍」と称されるようになった。
槍術の他に、八極拳の八大招「猛虎硬爬山」、と劈掛拳の十二大足堂子「招風手」をも得意としており、その強さはまさに常勝将軍である。
李書文は独特の武術観があり、「套路は技を熟練するために作られたものであり、套路ばかり練習して技を忘れてはならない。
技を学んだら、使う時は形にこだわらず、功夫を身につけ、また変化をも追求するものである」という言葉のとおり、一つの招法を熟練するまで徹底的に繰り返し練習し、当時から流行していた花法套子(見せかけだけの技)を反対していた。
これは李が多くの実戦で得た経験によって得た武術観であり、リアルである。その武術観のとおり李書文は一撃で相手を倒すことができ「李書文に二の打ちはいらず」という歌ができた。
実戦において、孟村、羅瞳の地から八極拳の名を広く知らしめた功労者の一人である。
晩年は居住地を定めず、拳の指導を生活の糧にしていた。
李書文の八極拳は長男・東堂と次男・萼堂に受け継がれ、今現在東堂の八極拳はその子孫が天津にて李氏八極拳の伝承に務めている。次男・萼堂(1904〜1972)はよく父の李書文の八極拳と六合大槍を受け継ぎ、若い頃に山東国術館や天津国術館で武術を教え、1957年湖南省観摩交流大会にて表演し、一等賞を獲得する。また、1931年には湖南国術訓練所の主任教官となった。李萼堂の息子・李志成は国際八極聯合総会の会長を務めている。

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霍 元甲(1869〜1910)

河北省靜海県の出身。
霍元甲の先祖はもとは河北省滄州の住人であり、先祖代々、迷踪芸(秘宗拳)を伝える家柄だった。
よって父霍恩第も迷踪芸の名人として広く知られていたが、霍元甲は幼少の頃は身体が虚弱であって、病気することが多く、12歳の頃に年下の子供とけんかしても、つねに負かされていた。その頃の霍元甲は武術を学んで強くなろうと志したが、父の霍恩第は身体虚弱な息子の霍元甲に武術を授けると、いずれ将来に迷踪芸を伝える家柄である霍家の名を汚すことになると恐れ、迷踪芸を伝えるのを拒んだ。
霍元甲は父たちの練習を見ては覚え、夜になると家の裏にある果樹園にこっそり行って練習し、苦心すること十余年鍛錬し続け習得したのであった。
その後、功なった霍元甲は天津へ出ることとなる。最初、霍先生は薬業を営んでいたが、多くの仲間に国術を教えたので続々と集まるようになった。
霍元甲は1910年上海に出て、精武体操学校を設立して、中国の伝統武術の普及と発展を図った。その後精武体操学校は中央精武体育会となり、南方の広州、香港、マカオ、そしてマレーシア、シンガポールなどの東南アジア方面まで支部を設立して、中国の伝統武術を伝え、現在も活動している。
迷踪芸の達人として広く名を馳せた霍元甲は「黄面虎」と称された。
その後、霍元甲は日本の武道家と試合をし、これを打ち倒した後に、突然変死したことにより、この試合に恨みを持った日本人によって毒殺されたという説があるが、真偽は不明である。
この説をもとにしてブルース・リーの映画「精武門(日本題名:ドラゴン怒りの鉄拳)」が製作された。
霍元甲のこれらの功績は中国の巨星といっていいだろう。

王 子平(1881〜1973)

回族。河北省滄州の出身。
武術の世襲制の家に育ち、幼少の頃から家伝の武術を学ぶ。
それから、沙宝興と馬雲龍から滑拳を学び、その後、楊鴻修から査拳を学ぶ。
「神力千斤王」と称され、北京、上海、済南等の地において何度もアメリカ、日本、ドイツの外国の格闘家、武道家を倒し、名声は広く知られた。
北京通州税局で同じ滄州の出身の武術家であり天津一帯の地域において「千里追風侠」と称された馬鳳図(税局の局長)と一緒に仕事をし、馬鳳図とその弟の馬英図たちと一緒に切磋琢磨して練習に励んだ。
その後の1923年、上海で開催された全国武術運動会大会において、演武した。
1928年、南京中央国術館が設立した後、「少林門門長」となる。
1949年の解放後、上海に住み、医療の仕事をした。
1959年には全国の武術家の代表として中華人民共和国建国十周年の祭典に参加する。
1960年、80歳の高齢にもかかわらず、周恩来総理に従ってビルマへ赴き、その武術団の総教練となる。
全国政協委員、中華全国体育総会委員、中国武術協会副主席、上海中医学院傷科教研室福主席などを歴任。
娘の王菊容(1928〜  )は著名な武術家である。
王子平は近年、中国全土を震撼させた著名な武術家である。

韓 化臣(約1886〜?)

河北省滄州羅瞳の出身。子供の頃から体格に恵まれていた。
青年の時に羅瞳八極拳の代表人物の張景星に師事する。その後入室弟子となり、八極拳と劈掛拳を学び真伝を得る。
日夜苦練した韓化臣のその双掌の威力は極めて大きかったという。そして「鉄巴掌」と称された。
民国初年、馬鳳図の求めに応じて、瀋陽巡警学校へ赴き武術を指導した。
南京中央国術館が設立された時に、館長の張之江と同じ滄州出身であり張門下の師弟でもある馬英図の呼びかけに応じ、南京へ赴く。そして散打試合で30余名の武術高手と試合をし、すべて一撃で倒し、相手は担架で運ばれたという。その強さにより「無敵将」と称された。 その時、馬英図も負けずに続けざま数十名もの名手を打ち倒したのである。
それにより、韓化臣は南京中央国術館の教務長となり、馬英図と一緒に正科として八極拳を指導した。
当時南京中央国術館にいた王子平、イ冬忠義、高振東、黄柏年、姜栄樵、郭長生などといった著名な武術家たちは、韓化臣と馬英図の実力には脱帽していたという。
外から来た道場破りは、必ずと言っていいほど、全ての武術家が韓化臣と馬英図を推薦し、ほとんど韓と馬2人が試合をし道場破りを打ち倒したという。 イ冬忠義の娘婿の李元智は特に韓化臣と馬英図を崇拝し、2人から八極拳を学び、その後台湾に渡って八極拳の指導をしたのである。
後に、馬英図の推薦により、南京中央国術館の第一科の科長になる。
南京中央国術館での活躍により、韓化臣の南方での影響力は大であり、その当時は「北に李書文、南に韓化臣」といわれたほどであった。
30年代に山東省へ赴き、山東国術館において心臓病で病死したという。
有名な弟子は、息子の韓潔泉、趙樹徳、李学義など。
孫の韓振閣は滄州武術大会において優勝を果たしている。韓化臣の子孫は現在山東に住んでいて八極拳を指導している。

霍 殿閣(1886〜1942)

河北省滄州の出身。
迷踪芸で有名な霍元甲の親戚筋にあたる。
幼少より武術を好み練習をしていた。そして後に「神槍」李書文に拝師し入室弟子となる。霍殿閣は李書文の開門弟子(最初の入室弟子)である。
功成った後に、甥の霍慶雲とともに、天津へ出、奉天系軍閥の許蘭州将軍の公館のボディーガードとなる。後に李景林将軍の武官となり、天津に名をとどろかす。
1927年、当時に天津居住していた皇帝溥儀の武術教師として招かれ、腕試しの後に、甥の霍慶雲とともに採用される。
1932年、溥儀とともに長春に移る。この後、宮廷内外に武術場を設け、八極拳の普及に尽力。だが、それと同時に日本関東軍の参謀たちに疎まれ、腕試しや悪質な陰謀等さまざまな嫌がらせ、迫害を受ける。 1937年6月、「護軍事件」発生。霍殿閣とその門弟たちが大同公園で関東軍兵士にからまれて傷害事件となり、二名の日本軍参謀を負傷させ、日本軍の軍用犬一頭を蹴り殺すこととなる。この事件をきっかけに関東軍の弾圧を受け、日本軍を恨みつつ1942年病死。享年57歳。

霍殿閣の甥・霍慶雲(1905〜1987)
長春を八極拳の第二の故郷まで発展させた功労者である。

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陳 発科(1887〜1957)

陳式太極拳第17世。河南省温県陳家溝の出身。
幼少の頃は病弱で痩せていて、家伝の武術の練習にあまり熱心でなかったという。
ある日父であり、16世・陳延煕は袁世凱将軍の要請を受けて、天津まで指導しに行くことになった。
陳延煕が旅立つ日、見送る村人の中の一人から「陳家は代々名人がいたが、陳延煕の代で終わるのだろうか・・・」それを聞いた陳発科は、それ以来、一念発起し、日々激しい練習をしたという。
その後、陳発科は地元の河南で保金票を務めていたが、1928年、40歳を過ぎてから北京に出て、嫡流の陳式太極拳を初めて指導した。
北京の体育館において陳発科が陳式太極拳の型を演じた時の話だが、その突き出す拳は風を立て、足を踏みおろした振脚のすさまじさに館のガラスが振動によってゆれひびいていたという。その場にいた並み居る武術家が「これが太極拳か」と驚いた。今まで楊家や呉家の太極拳になじんでいた人たちが驚いたのは当然である。 弟子には馮志強、李経吾、孫秋風、田秀臣、朱端川、陳照奎、洪均生など。

■陳発科の子孫・陳小旺が主催している世界陳小旺太極拳総会のホームページ<ここをクリック>
■台湾に渡った陳発科の弟子・潘作民の門下生のホームページ<ここをクリック>

馬 鳳図(1888〜1973)

回族。河北省滄州孟村楊石橋の出身。
幼年の時、父の馬捷元について武術を学び、そして母方の祖父であり孟村の八極拳の宗家・呉世軻と同じく親戚にあたる呉懋堂から八極拳を学んだ。
そして当時の塩山の名人、黄林彪の入室弟子となり、黄より劈掛拳を学び全伝を請け継いだ。それにより李雲標、黄林彪と続いた通備武学を継承した。
やがて天津で孫文の同盟会に入り、その命により、民国初年に同志と共に「中華武士会」を設立した。この「中華武士会」は古今を通じて最もレベルの高い武術団体であったと言われており、形意拳の李存義、太極拳の李瑞東、劈掛拳の肖公輔、八極拳の張景星などのほかに、さらに神槍・李書文や弟の馬英図など当時の総勢たる武術家が参加した。その中で当時大学生の身でありながら副会長と総教師を兼任した馬鳳図の実力はうかがい知ることができる。
若くしてすでに天津で「千里追風侠」と称され著名な武術家であった。
1914年、馬鳳図は東北地方へ赴いた時、現地の武術家の赤β鳴九、程東閣、胡奉三の三人の武術家と出会って意気投合し、たがいに交換教授を行い翻子拳を習得した。
1919年東北より北京に戻った馬鳳図は西北軍閥の領首である馮玉祥将軍と知遇を得てたがいに意気投合して西北軍に迎えられて軍人となった。
1924年には張家口において馮部隊の新武術研究会を設立し、少将兼副会長となった。(会長は後に南京中央国術館の館長になった張之江)
1926年には国民党に従って西北甘粛省に入り、前後して軍政の両世界において高職を兼任する。
1933年から1935年の期間の間に、甘粛省国術館と青海省国術館を設立し、両館の副館長となる。
日本との戦争の後、政界からの官職から離れる。その後、医を持って業とした。事態が変わっても生涯武術研究は続け、これまでに学んだ劈掛、八極、翻子などの別々であった流派を通備武術という一つの流派に編成し、移住した甘粛をはじめとする西北の地に広く普及したのである。
甘粛省政協委員、甘粛省民革常委員、甘粛省武術協会主席、甘粛省中医学会主席などを歴任している。
馬鳳図には弟子が多く、中でも長男・馬広達(先妻の間でできた子供)が最も優れ、刀法に見識が深く、馮玉祥将軍の拳銃隊隊長を務めたが、惜しいかな、日本との戦争において戦死した。
他に有名な弟子は王桂林、沙子香、王天鵬、そして西北の棍王と称された羅文源など。
息子の穎達、賢達、令達、明達は馬氏四傑と称され武林界に名高い。

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王 向斎(1890〜1963)

河北省深州の出身。
幼少の頃から"半歩崩拳あまねく天下を打つ"といわれた形意拳の達人で有名な郭雲深より親しく教えを受ける。郭雲深没後20余年間、拳法の各流派の見解にこだわらないことを強く考え、中国の南北を巡り、良い師と良き友を求めた。
そして拳理研究の後、意拳を創始する。
実戦家として名を馳せ、国手(国を代表する名人)と呼ばれた。意拳という独特の拳法へと完成させた後、養生法としての意拳の研究、指導に力を注ぎ、77歳にて逝去。
弟子は姚宗k、王玉芳(王向斎の娘)、尤彭煕、趙道新、韓星橋、日本人の澤井 健一などがいる。

■王向斎の弟子・姚宗kが創立した北京市武協意拳研究会のホームページ<ここをクリック>

馬 英図(1897〜1956)

回族。河北省滄州孟村楊石橋の出身。
6歳より父から武術を学び始めたが8歳の時に祖父  呉世軻と、兄の馬鳳図の命より羅瞳の張家に武術を学びに出向き、羅瞳八極の宗家、張景星の入室弟子となり八極拳と六合大槍を学んだ。
当時8歳であった馬英図の才能を愛した張景星は真伝を授け、さらに師・張景星の同門であった黄四海からも指導を受け、八極拳の進歩は神速となった。
また兄の馬鳳図からも八極拳や劈掛拳の指導を受けている。
兄、馬鳳図が副会長を務めていた「中華武士会」に参加し、その際に八極拳と武器を演武して 同門の先輩武術家である李書文から激賞された。李書文はまだ当時弱年であった馬英図の演武を見て「この子は"頂抜勁"が出ているじゃないか、この子は将来きっと高手になる」と何度も褒め称えていたという。
李書文の予想とおり、馬英図はその後めきめきと頭角を現していった。
馬英図の功力は高く、攻撃の一手は素早く、凶暴であり、「閃快手」、「馬狠子(馬凶暴という意味)」と広く称されることとなる。
1914年 馬英図は兄、馬鳳図に随って東北へ赴き現地の武術家と交流した。
それから東北より戻った馬英図はしばらく後に西北軍閥総司令の馮玉祥将軍と知り合い、兄とともに西北軍 に迎え入れられる。
馬英図は軍人としても一流であり、1924年西北軍が天津に進行した時、当時天津を守っていた東北軍閥総司令、張作霖の部下である李景林将軍の十数万の大軍の駐屯地を苗刀と拳銃をたずさえた、わずかの少数の精鋭からなる「大刀隊(敢死隊)」を率いて攻め入り天津を占領した。
1928年、馮玉祥将軍の部下である張之江が南京で設立される国立の武術家養成機関である中央国術館の館長に就任することになった時、その活動に参加するため南京へ赴いた。
その南京中央国術館を設立する際に政府が優秀な武術家を見つけ出し、教師として採用する為に開催した試合である「第一次全国国術考試(考試とは試験の意味)」の散打部門と撃剣部門、長兵器部門(槍)において優勝した。
それにより南京中央国術館の教師となり、八極拳を正科として指導した。
南京中央国術館が創立された当初、「鉄頭」、「鉄手」と称されていた2人の某武術名家が試合を申し込んできた。この2人の武術名家を誰もが立ち向おうとしない、その中で馬英図が一人立ち向かい簡単に打ち倒した。
また、国民党政府要員が南京中央国術館に視察に来たときに、短兵(撃剣)の試合を開催されることとなった。当時有名な武術家であった朱国禄と試合することとなる、そして相手の朱が馬英図も防具を着けるように依頼してきたが、馬英図は「無用」と答え、馬英図だけが防具を着けずに試合を行うこととなった。審番が「初め」と言った刹那、快速の攻撃であっという間に朱を打倒する。馬英図のあまりにも猛烈な攻撃による迫力にその場に居た多くの武術家は圧倒され、その後誰も馬英図の相手になろうとしなかったという。
数々の実戦でのエピソードがあり、その実力は全国から多くの武術家が出入りしていた南京中央国術館の中で実力NO1と自他共に見なされるようになった。南京中央国術館では第二科の科長を務めた。
馬英図は館長の張之江たちと共に中央国術館の創設者の中の一人であり、創設の際、滄州から多くの武術家を呼びかけた。韓化臣(八極拳)、李福臣(功力拳)郭長生(通臂拳)などは科長である馬英図が呼びかけによって教師になったのである。
1930年代末には、西北軍の劉汝明、宋哲元などの部隊に属し武術教官を兼任した。
1949年、北京で伝作義部隊を起こした。
その後病気になり、甘粛の地で農業の仕事をした。
馬英図は人並み以上に膂力や胆力があり、シュアイジャオや重量挙げ、騎射等も一流の腕があった。そして武術の実用性を重視し、長と短の拳法をそれぞれ精通し、勁道は剛柔兼ね備えており、多くの試合をし勝利を収めた。
有名な弟子は、曹硯海、馬承智、何福生、李元智、蒋浩泉など。
現在中国では、馬英図は同世代の先輩武術家・李書文と韓化臣とともに八極拳の名を広めた中期の代表的人物として名を連ねている。

中央國術館第一次國術考試開幕式の時の写真

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常 東昇(1910〜1986)

回族。河北省保定の出身。
8歳の時、父からシュアイジャオの基本動作を徹底的に叩き込まれる。10歳から張鳳岩についてシュアイジャオを学ぶ。常東昇は師の張鳳岩からシュアイジャオの絶招を習得し、若いながら、相手に触れた刹那迅速にどんな相手でも投げ倒すことができた。
また、劉倫山から形精拳を学び、また楊茂堂から覇子拳を学ぶ。
1932年南京中央国術館に入学し、翌年の第二回国術国考において優秀な成績を収め、南京中央国術館のシュアイジャオ教師となった。
1937年には、国民党軍隊軍官訓練団のシュアイジャオ教官に任命される。
1940年には国民党警官学校の教官なる。
1948年上海で開催された第七回全国運動会(日本でいう国体)のシュアイジャイ中量乙級部門において優勝する。
それから台湾に渡り、警官学校と台湾文化大学、政治大学、建中などの学校でシュアイジャオを指導した。
1976年にモロッコとシンガポールにおいて表演。その後アメリカへ行って指導した。

■常東昇の孫・常達偉氏のホームページ<ここをクリック>

黄 性賢(1910〜1992)

福建省の出身。
幼い時から武術に興味を持ち、謝宗祥から鳴鶴拳を学ぶ。後に潘椿年から永春白鶴拳を学ぶ。
1934年、福建省擂台(散手)大会に参加し、2位の成績を収める。
1947年に台湾に渡り、「腕なし名人」として著名であった鄭曼青から太極拳を学ぶ。
1951年台湾省国術会指導組組長となり、また台湾大学国術教授となる。
1955年台湾国術大会の推手部門において優勝する。擂台(散手)部門では準優勝を果たす。
1956年にシンガポールへ移住し、1959年にシンガポール太極拳会を設立する。
1970年、60歳を過ぎていた黄性賢はプロレスラーアジアチャンピオンであった廖広成を破り、国内外に震撼させる。
その後、マレーシアにも行き、太極拳研究会を設立する。
1971年には台湾、フィリピン、タイ、マレーシアなどの七カ国擂台大会のチャンピオンとなる。

蔡 龍雲(1929〜  )

中国武術最高段位9段。中国十大武術名教授。山東省の出身。
"神拳大龍"とあだなされ、北派の華拳の実戦名手として現代中国武術界でも名高い。
4歳の時から父の蔡桂勤から武術を学ぶ。幼少ながらも、父の厳しい監督の下、修行をし、“馬歩”の架式を30分を課せられ、不断に続けていたという。
1940年代の当時、西洋人が組織したボクシング界から何度か中国武術界に挑戦されていた。そして、1943年に正式に中国武術界に対抗試合を開催するように依頼される。
それを上海武術界は激怒し、中国武術名誉のために、主に上海の著名武術家・王子平と華拳の達人で有名であった父・蔡桂勤たちが立ち上がって挑戦を受けたのであった。そして、8人の選手を選んで西洋人のボクサーと戦うのであった。
そして、当時わずか14歳の少年であった蔡龍雲は父に反対されたのにもかかわらず、対抗試合に参加することとなる。参加選手の中で最年少であった。
そして、ロシア系ボクサーと戦い、体格の差のハンディーにも負けず、KO勝利を収めたのであった。
少年であった蔡龍雲の活躍により中国武術が5勝2敗1引き分けの成績により、対抗戦に勝利したのであった。
そのことから蔡龍雲の名前から呼ばれていた"大龍"から"神拳大龍"と呼ばれるようになった。
三年後、次にアメリカの黒人ボクサーと戦うこととなる、これも退けている。これらは中国武術の名誉をかけた試合であり、ひいては中国人としての誇りを守った英雄として蔡龍雲は特別の存在となったのである。
1952年、全国第二届青年代表大会に参加する。そして、1953年には華東地区の代表として全国民族形式体育運動会に参加し、華拳、峨眉刀、華拳対打を演武し、金賞を獲得する。
上海武術協会主席、中国武術協会副主席、上海体育学院教授などを歴任。
多くの学生を育て、有名な弟子は、王培金昆、邱丕相、呉忠良など。

当時14歳の蔡龍雲がロシアボクサー・ルサールをKOしたシーン

馬 穎達(1931〜2000)

回族。祖籍は河北省滄州孟村楊石橋。
幼少の頃より父親の馬鳳図から劈掛拳、八極拳、翻子拳、戳脚などを学ぶ。
1949年軍人となり新疆へ赴く。退役後、西北師院体育系の学生となる。
1952年、1953年にそれぞれ甘粛省と西北地区武術大会の短兵部門において優勝する。
1953年秋に天津で開催された全国民族形式体育大会(日本でいう国体)に参加する。弟・賢達と共に参加したことにより、回族兄弟としてこの大会の注目の的であった。よって武術界でも注目され、新聞などに大きく取り上げられた。(その時の短兵部門の優勝者は馬賢達)
1955年蘭州市体育運動委員会で勤務する。
馬穎達は通備武術の技芸を基礎とし、翻子、戳脚、大槍、鞭杆、ボクシング、撃剣(短兵)などを得意としていた。
1960年代から1980年代の間に、何度も甘粛省武術隊の教練となり、指導した弟子及び学生は多かったという。その中で、張克倹、王徳功などが優れている。
甘粛省武術協会副主席などを歴任。

馬 賢達(1932〜  )

回族。現在自他共に認める中国武術最高峰の武術家。中国武術最高段位9段。中国十大武術名教授。
祖籍は河北省滄州孟村楊石橋。武術世襲制の家柄の出身であり、先祖は「双刀」李鳳崗、「大刀王五」こと王正誼などといった武術家はいずれも親戚や師承関係であったという。
幼少の頃より父親の馬鳳図から劈掛拳、八極拳、翻子拳、戳脚などの拳法や長短の兵器などを学ぶ。
馬鳳図の教授方法は型だけの練習だけではなく、理論、そして実用の練習も重視し、息子たちに実践させた。馬賢達は兄・穎達と一緒に毎日散手や対練などの相対練習を繰り返し練習し、痣や打撲はしょっちゅうだったという。時には兄弟子の王天鵬や羅文源たちとも一緒に激しい練習をしてたという。馬鳳図の厳しい指導の下、功力の高い兄弟子と毎日繰り返し散手などの練習をしてたことが若い馬賢達の財産になっていった。
そして、1952年に天津で開催された全国規模の散打大会(フルコンタクトで打ち合う試合)で弱冠19歳で、しかも大学生の身で参加し、並み居る名人、達人をことごとくKOし優勝を果たした。また同時に開催された短兵大会においても圧倒的な強さで優勝している。
さらに翌年1953年には全国短兵格闘試合でも優勝し不敗の記録を樹立し、全国に勇名を馳せた。
これらの馬賢達が参加して優勝した大会は、解放後、初めておこなれた全国規模の大会であり、現在のものとは違い、荒々しいものであって、打ち負かされた選手は担架で運ばれるケースが多かったという。
その中で20歳前後の馬賢達が多くの武術高手を撃破して、無敗のまま優勝したのは、前代未聞の出来事である。その当時の試合の模様は記録映画として国家体育運動委員会が保管しているとのこと。
そして、ロシア人や黒人のボクサー、格闘家らとも試合し、快速の翻子拳や劈掛拳の連打の突きで圧倒している。
馬賢達は、「武術の郷」である滄州から出た武林の英雄といわれており、その強さは現在中国の武術界においても語り草となっており、「快手馬」と称されている。
映画「少林寺」において武術指導をもたらし、主演ジェット・リーに翻子拳を指導した。
1994年賢達武術学院を設立。4年後の1998年末には馬賢達が天塩をかけて育てた日本人弟子の小林正典が同学院日本支部を設立。この日本支部は日本初の本格的な通備武術団体である。
陜西省体育総会副主席、陜西省武術協会主席、中国武術協会副主席などを歴任。
長男の馬越はよく受け継ぎ、現在イギリスに移住し活躍している。
次男の馬侖は西安で賢達武術学院の校長を務めており、中国散打の国際審判員であり有名なコーチであり、多くの散打の名手を育てている。
日本人弟子の小林正典は馬賢達からよく武術を学び、日本で普及に努めている。

1953年に全国短兵格闘試合で優勝した時のもの

イギリスで活動している長男の馬越

■馬賢達と通備拳ホームページ<ここをクリック>

馬 令達(1937〜  )

回族。祖籍は河北省滄州孟村楊石橋。
幼少の頃より父親の馬鳳図から劈掛拳、八極拳、翻子拳、戳脚などを学んでいた。その中で八極拳が特に優れ、散打や短兵などの格闘性も優れている。
青少年の時、甘粛省と蘭州市で開催された散手と短兵などの数多くの大会において優勝し、多くのタイトルを獲った。まさに拳王である。
1959年、撃剣隊の教練と佩刀の運動員を兼任して、全国第一回運動会(日本でいう国体)に参加、好成績を収める。
1980年後も相次いで、甘粛省の撃剣隊、ボクシング隊の主教練を務める。格闘性の強い武術家である馬令達は多くの優秀な運動員を育て上げ、全国的な散手及びボクシング大会において大活躍した。
1987年には甘粛省開展業余武術普及活動優秀成果賞を獲得した。
1988年、甘粛省体育総会から蘭州市から職工体育先進工作者を受賞される。1989年には今度は甘粛省から業余訓練先進工作者を受賞されている。
蘭州市武術協会秘書長、蘭州市重競技協会副主席などを歴任している。

馬 明達(1943〜  )

回族。祖籍は河北省滄州孟村楊石橋。蘭州生まれ。
幼少の頃より、兄たちと同様に父親の馬鳳図から劈掛拳、八極拳、翻子拳、戳脚などの武術を学ぶ。
15歳の時に甘粛省武術大会の剣術部門において優勝する。
1959年に、第一回全国運動会(日本の国体に相当)に参加し、剣術部門で八位の成績を収めた。
第三回の全国運動会では甘粛省撃剣隊の教練となり、選手を指導した。
1967年甘粛師範大学歴史系を卒業後、同大学の体育系で教鞭をとる。
1978年に蘭州大学歴史系研究生となり、その後蘭州大学に残り、敦煌研究室の副主任と校古職研究室の主任となる。
兄たちは武術の名人として広く知られたが、馬明達は武術だけでなく学問にも精通している。
1993年蘭州から広州に移住し、曁南大学の歴史系教授となる。また、華南師範大学の体育科学学院客座教授、西北民族学院歴史系客座教授。中国元史、明史研究会会員、広東省武術文化研究会の会長、李小龍(ブルース・リー)研究会の会長を兼任している。
馬明達は馬鳳図の晩年の成果を受け継いだ人物であり、特に劈掛拳、戳脚を得意とし、槍術や刀法にも精通している。
馬明達は元来の中国の伝統武術の普及に力を注いでおり、競技性武術を真っ向から反対している。信念を曲げずに父の馬鳳図から受け継いだ通備武術を伝えている。「文武融通」の思想を唱え、その学術体系は多くの人から注目されている。

中央電視台の番組にて、短兵と伝統武術のあり方について熱く語る馬明達。
競技性武術が中国武術を衰退すると強く警告している良心的な武術家である。

陳 小旺(1945〜  )

河南省温県陳家溝の出身。現在、陳式太極拳第19世。
代々陳式太極拳を伝える家庭に生まれた陳小旺は父の陳照旭(第18世)から武術を学ぶ。
1980年から1982年まで全国武術太極拳大会に参加し、3年連続金メダルを獲得を獲得する。
1984年には河南省陳式太極拳協会主席に選ばれる。
1985年には中国の代表チームに選ばれ、西安で開催された第一回国際武術邀請大会で優勝を果たす。それ以降何度も大会に出て優勝する。
中国を対表し、日本、アメリカ、シンガポールなどの各国を訪問した。
世界陳小旺太極拳總會會長,中國武術高級教練、第七届全国人民代表などを歴任。
現在は、オーストラリアに亡命している。

■世界陳小旺太極拳総会のホームページ<ここをクリック>

趙 長軍(1960〜  )

回族。西安市出身。
6歳から武術を学び、10歳で陝西省武術チームに入り、専門訓練を始める。
1972年、趙長軍は第1回全国武術大会に出場し、優秀賞を獲得した。
1974年初めて中国少年武術代表団として日本を訪問し、趙長軍の優秀な演武とその態度は国家体育委員会の称賛を受け、「少年武術外交家」と称された。
その後も、厳しい練習を続け、1978年から1987年までの10の国内外の武術大会で”個人総合優勝”し、数多くの金メダルを獲得、中国武術界唯一の「10連覇」に輝いた。
また、1980年代頃から映画にも出演し、武術指導も兼任した。
1987年引退後、趙長軍は武術学院を創設した。
趙長軍は何度も国家体育運動委員会のスポーツ栄誉賞を獲得し、さらに“全国人民代表大会代表”、“全国模範労働者”、“全国民族団結進歩の先進個人”にも選ばれたりした。
1994年、趙長軍は武術界唯一の“建国45周年スポーツ界45傑”に選ばれ、1995年には中国武術協会から“中華武術の星”の称号を授与された。さらに1996年には“先進的な教師”に選ばれた。
現在中国武術協会委員、陝西省武術協会副主席、陝西省青年連合会副主席、陝西省武術チーム総監督、中国西安趙長軍武術学院院長。

■趙長軍が校長を務める趙長軍武術学院のホームページ<ここをクリック>







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