神槍・李書文の八極拳の真実とは?U


演武・協力/李書文系八極拳嫡伝継承者・李志成
資料提供/丸山宏之
編集/中国武術WEB編集部


 近年八極拳の強さを広めたのは神槍・李書文と馬英図の功績が非常に大きいのは言うまでもない。李書文は162センチの小柄であったが、馬英図は184センチもあり大柄であった。李書文と馬英図の2人は年齢が離れていたが、羅タン(田+童)八極の宗家、張景星の弟子ということで、兄弟弟子同士(李書文は黄四海から八極拳を習っていたが、張景星の拝師弟子でもある)であり、李と馬の一打必倒の打撃は試合において多くの武術家の命を殺めた(軽くて重傷)ということで危険視され、当時の武術界ではこの2人を「李大狠子」、「馬二狠子」という言葉があったのである。

 馬英図は、兄の馬鳳図から孟村系八極拳を学びながら、6歳の時に張景星に拝師して八極拳と六合大槍を学んでいたが、全伝を授ける段階になってから張景星が当時高齢になっていたということもあり、動作の一部の示範がうまくできなくなったということで、張景星の依頼により張の弟子であり馬の兄弟子にあたる李書文が馬に伝授したこともあったという。

 馬英図は身体が大きく、両手が膝の下まで伸びるほど頑健な体格をしていたので、張景星の代理を務めた兄弟子の李書文から指導を受けた時の李からのアドバイスに従い、後に馬英図は苦練を重ね、自分の大柄な身体を技に活かせるように実戦で戦う時は猛虎硬爬山よりも、迎風朝陽手を好んで使っていたという。このことは馬英図の弟子である牛増華が語っている。

李書文は生涯武術教師だったので、多くの軍人に指導していたのは武術愛好家たちも広く知っている事実だ。
 馬英図の方はのちに史上初の武術国立学校であった「南京中央国術館」において何福生、蒋浩泉、李元智など多くの弟子を厳格に育てた。

 何福生は「南京中央国術館」第三期を首席で卒業し、のちに「南京中央国術館」の精鋭として広く知られ武林の発展に大いに貢献した。日本では1985年に「日中武術交流会」が日本武道館で開催され、その時に馬賢達(馬英図の兄・馬鳳図の次男)と八極対接を演武し馬と共にこれこそ本物の伝統武術であると日本の観衆に見せつけた。
 その同期であった蒋浩泉は西洋拳王として知られ、中国共産党・江沢民の信頼を得て、政治中枢である「中南海」警護の総教官を勤め、「中国第一位武術博士」という称号を与えられた。
 以上の理由から李書文と馬英図が極めていた羅タン(田+童)系の八極拳が大いに近代武術界の発展に貢献していたのがおわかりであろう。




李志老師による六合大槍の基本


李書文の嫡伝の六合大槍の動画を見たい人はこちらの動画をご覧下さい。



 李書文の嫡孫であられる李志成老師は「昔の八極拳家は本当に実戦を追求して練習していたそうです。よく同門で集まり一緒に練習していました。霍殿閣、霍慶雲、孟顕忠等といった祖父の弟子や、あの有名な馬賢達先生と馬明達先生の叔父(馬英図)たちが祖父のもとに集まってよく練習をしたそうです」と昔の練習のことを説明される。

 さらに「幼少の時から祖父から後継者になるべく英才教育を受けてきた父は、14歳になると祖父について指導しに行っていました。そんな時に、東北軍に招かれていた武術高手と試合をし、打ち勝つことができました。父はその後も多くの他流試合をしたそうですが、祖父について山東国術館に行っていた頃ですが、ある日、鉄槍王と称された武当派の武術の達人として知られていた洪金龍が、自分の武術を自慢し、祖父・李書文を馬鹿にしたことを言っていたのです。それを聞いた祖父は洪を懲らしめに行こうとしていましたが、父が祖父を止め、"父の問題でしたら、息子がやります。私が洪を懲らしめるのでそれで十分です”と言い放ち、父が試合をすることとなりました。その時は父の功夫はちょうど油が乗り切っていました。父は2本の大槍を手に持ち、洪にどの大槍を使うか選ばせました。それから試合となり、洪は白蛇吐信という技を用い父の胸に突いてきました。父は六合大槍の中の技法の一つの鉄牛耕地という技で洪が持っていた槍を猛烈に跳ね飛ばしました。洪は父の技に感服し、試合後には父と洪は仲良しになりました。それにより父の名は山東の地で知られるようになりました。このように父は祖父の代理で他流試合をしたことが多くありました」と李老師の父であられる李萼堂の武勇伝を語ってくれる。

 以前武術誌で"周馨武との試合のことが載っていたのを見たことがあります”と言うと、
李老師は「あれは父が18歳の時です。周先生は当時、別の門派の武術をやられていて、"鉄の腕”と称されていたほどの達人でした。当時の父はまだ子供だったので、ある日街をぶらぶらと歩いていたようです。その時に周先生が教えておられる道場に通りかかり、周先生が弟子に教えていたのを見たそうです。当時の父はまだ子供だったので、周先生たちが練習している武術を見て、周先生の武術のことを貶したそうです。それで父と周先生は試合をすることとなり、父が勝ちました。周先生は負けたその場で父に弟子にしてくれと頼んだそうです。当時の父はまだ子供でしたので、どうしてよいかわからず、祖父の所へ周先生を連れて行ったのですが、あいにくその日は祖父は留守だったので、困り果てた父は兄弟子の霍殿閣の所へ周先生を連れて行きました。よって、周先生は祖父の弟子ということで霍殿閣から八極拳を学んだのです。もう昔の話になりますが、父が周先生に失礼なことを言って試合をしてしまった過去があるので、私は私の弟子に"他門派の人に対して馬鹿にすることを言ってはいけない。たとえ相手が実戦に役に立たないような練習をしていても馬鹿にする態度をとってはいけない”と言ってそれを守らせています。人には心があります。いくら自分が正しいと思っていても、相手の心を傷つけてしまうことを言えば、相手だって面白くないわけですからね」としみじみと答えてくれたのであった。

 



万勝双刀
日本ではあまり知らせていないが、李書文−李萼堂−李志成老師と李氏八極拳直系の間で伝わってきたものである。

「これは祖父李書文から父に伝えたものです。父が双刀を振り回すと大変速く、たとえ水をかけ
られても、父の体はまったく濡れることはありませんでした」と李志成老師が語りながら演武してくれました。


李書文の嫡伝に伝わる双刀の動画を見たい人はこちらの動画をご覧下さい。




李志成老師と小林正典師範
小林師範は以前から李老師と親交があり、李老師は小林師範の武術に対する情熱に感動され、禁を破り、小林師範が湖南の地に滞在している間、寝食をともにしながら、ついに日本人で初めて李書文直系の真伝を授けたという。
小林師範曰く「李書文は八大招を4つしか伝授されなかったと聞きますが、李書文が多くの実戦経験によりより実戦的に改良されてきたのでしょうね。今まで学んだものと照らし合わせすことができ勉強になりました」

今回の取材は小林師範の協力によりできることができました。ありがとうございました。


≫≫小林師範が指導される日本馬氏通備武術協会のホームページはこちらから







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